モリー・グプティル・マニング
翻訳 松尾恭子
1933年、ナチス・ドイツは、ベルリンにおいて、大々的な焚書を行なった。
その中に、「ハイネ」の書籍も含まれていた。しかし、人々の「ローレライ」の記憶は消せない。そのためナチスは「全体主義らしい丁重さで……ハイネの名前を抹消し、歌だけ残した。」という。数え切れないほどの書物が焼かれ、1935年、ヒットラーの「我が闘争」のみが兵士の書物とされた。
それに対して、アメリカの図書館活動は戦場の兵士たちに、本を送ることを始める。筆舌につくしがたい戦うばかりの兵士の日々を、もっと人間らしくいきられるようにとの願いをこめて。
始めは本の寄付を呼びかけ、出版社には兵士のための本を依頼し、その協力は大きな力となった。しかし、紙がない。「戦時図書審議会」が組織されて、「兵隊文庫」と呼ばれる本が量産された。それは小型のペーパーバックだったが、移動の多い兵士の尻ポケットにも入るという、大きな利点があった。本の選択は発禁本にもおよび、兵士の要望にも応えたために、兵士からの感謝の手紙が届くようになる。時には作者が返事を書いた。
しかし、政治の世界には「本の規制」が動き出すが、ルーズベルト四選により、その危機をまぬがれた。(1944年11月4期目。しかし1945年春に死去。)その後間もなくヒトラーが自殺。1945年には日本の敗戦である。
その後もアメリカの戦争は終わらない。「兵隊文庫」の活動は弛まず続けられた。しかし、兵士たちが軍隊から帰国する時はきたが、陸海軍の大幅な縮小にすぎない。それでも予算縮小しながら続けて、1947年9月に「兵隊文庫」プロジェクトは終了した。
さて次は、帰還した兵士たちの就職や進学の問題が待っている。この本では、「兵隊文庫」によって学んだ兵士たちは、順調にそれぞれの生き方をしているように書かれていたが、果たしてそれは本当だろうか?
むしろ、私が納得したのは、アメリカの軍隊の規模の大きさと強さは、そうした国による兵士への待遇によるものだったのか、と思う。日本人が「天皇」と「神風」を信じて、脇目もふらずに戦争に邁進したのとは、根本的に違う発想だった。
しかし、戦争によって兵士が心を病むことを「兵隊文庫」だけで救えたとは、到底かんがえられない。そのことについては、一切触れていない本であった。ナチス・ドイツの「焚書」の数より、アメリカの「兵隊文庫」の数が上回ったことが強調されていました。
「兵隊文庫」のなかには、その後長く読み継がれたものも当然あった。
たとえば、F・スコット・フィッツジェラルドが1925年に発表した「グレート・ギャッツビー」は、作者の存命中は「失敗作」とみなされていたが、「兵隊文庫」となって、兵士の心をつかんだ。そして本土の人々も読むようになって、アメリカを代表する作品となった。どうやらこの日本語訳をしたのは2006年「村上春樹」だった。