ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

とげ抜き新巣鴨地蔵縁起・伊藤比呂美(続)

2010-03-31 21:32:55 | Poem
 これは小説でもドキュメンタリーでもエッセーでもない。れっきとした詩集なのです。図書館では「詩集コーナー」に置いてあります。書店ではどうか?詩集売り場に置くと売れないから、小説売り場にあるのではないか?

 本を開いて、まず驚いたこと。延々と長い17編のドキュメンタリーのような散文詩ですから、紙面は小説と同じように見えますが、上下の余白がたった6ミリです。手近にあった大江健三郎の小説と測り比べてみましたが、大江の本の上下の余白は2センチ~2,5センチ(←これが、ほぼ標準。)でした。

 なんという偶然!この本を夕べ読み終わって、少しだけメモ書きをしてから、寝る前に、読みかけだった大江健三郎の「水死」の続きを読んだ途端に、こんな文章に出会いました。こちらは小説ですよ。(←それにしても、なんという読書彷徨・・・。)


 『文庫本のこまかな活字が埋めている長方形、周りの白い部分(そこを英語だとmarginといい、その余白への書き込みのことをmarginaliaとも言うと、なにかの雑談で話すと、それは文化人類学者や建築家の友人たちと、たまたま周縁性ということを共通の主題にしていた頃だが、周りの者のいうことを聞き流して自分の黙想のなかに入るようだった篁さんが、しばらくして「マージナリア」という深い美しさの新作を発表した。自分の人生でいちばん創造的な環境のなかにあった時期!)・・・以下略。』


 些細なことを書きましたが、このはみ出さんばかりの紙面が伊藤比呂美さんの爆発するような生きるエネルギーを表わしています。某社の「定義集」のなかで「本の中で行の終わりが余白にとどかないところ――そんなのが詩ね。」という小学生の言葉が収録されているのですが、それを久しぶりに思い出しました。この子に教えてあげたい。「余白をはみ出るようなものも詩ですよ。」って。

 まさにこれは「満身創痍」の詩集です。カリフォルニアの家族(3番目の夫と小学生の娘のあい子)と、熊本の肉体的にも精神的にもすでにあぶない老親の介護との往復生活。さらに一方的にしか連絡のない1番目の夫との間の娘(ベイエリア在住らしい。)、2番目の夫との間の娘は拒食症&鬱病の大学生の「よき子」、さらに犬と猫。自称「たらちねの母」は、それらの家族のために走ります。「生きている。」を連呼しながら。そして比呂美さんを守ってくださったものは、「キリスト」でもなく、「死者の書」でもなく、まさにアニミズムの「とげ抜き地蔵」だったということです。

 愛娘もこの詩集を半年前に読んでいました。「どうだった?」とたずねましたら「つかれた・・・。」と申します。「でもねぇ。比呂美さんは一人っ子だったのかしら?なんだか兄弟姉妹の存在が全く感じられないのだけど。」とつぶやきましたら、愛娘は「お母さんだって、一人ぽっちでおじいちゃんとおばあちゃんの介護をしたでしょ。」と・・・。そうでした。かつて老親介護が始まったのは愛娘が大学の合格が決まった翌月からでした。下の息子はその後から大学受験期に入りました。心配はありましたが問題もなく通過しました。比呂美さんのようなご苦労はありませんでしたが、わたくしは結婚は1回だけでした。離婚もありません(^^)。そういえば海外生活もなかったなぁ。

 比呂美さんのお父上と、わたくしの亡父との奇妙な共通点がありました。それは「藤沢周平」です。その年齢に辿り着くまでには、さまざまな読書経験があるはずです。しかしその流れがある時からまったく変わります。亡父はわたくしが買ってきた本を「面白くない。」と言い出しましたので、夫に相談しましたら「藤沢周平はどうだろう?」と言いました。そういえば詩人の嵯峨信之氏が病室で読んでいたのが「藤沢周平」だったと、どこかの本で読んだことを思い出しました。それは大当たりでした。郷里の書店の「藤沢周平」を買い占めた感じでした。


  *     *     *

ポーランドの詩人「ヴィスワヴァ・シンボルスカ」の言葉が思い出されます。


   なにごとも二度は起こらない
   けっして だからこそ
   人は生まれることに上達せず
   死ぬ経験を積むこともできない

   (「なにごとも二度は」より)


   詩を書かない滑稽さより
   詩を書く滑稽さのほうがいい

   (「可能性」より)

とげ抜き新巣鴨地蔵縁起・ 伊藤比呂美

2010-03-27 15:20:57 | Poem
 初出は「群像」の2006年2月~2007年4月となっています。おそらくこの時期にリアルタイムで書かれたものではないか?と思います。カリフォルニア在住の伊藤比呂美が、熊本の老母の看護のために帰国と帰宅を繰り返す過程で、母上の容態はどんどん悪化して、カリフォルニアの夫の心臓バイパス手術にすら立ち会えない状況を迎えることになる。その時病室にいる夫へ電話をかけ、1つの約束をする。ここを読んでいて涙が止まらなかった。


将来、あなたがたとえ百や二百まで生きようとも、とわたしはいいました。
将来、おれが百や二百まで生きようとも、と夫がくりかえしました。
あなたとわたしが連れ添うかぎり。
おまえとおれとが連れ添うかぎり。
どんな口論や喧嘩を為したとしても。
どんな口論や喧嘩を為したとしても。
そしてそれは屹度するが。
そしてそれは多分するが。
ぜったいに。
ぜったいに。
今回の手術のときわたしがそばにいなかったことを、あなたは非難しないこと。
今回の手術のときおまえがおれのそばにいなかったことを、ぜったいに、おれは非難しない。


 この約束を即刻考えた伊藤比呂美の予測には脱帽する。わたくしは予測できなかったからです。郷里の老父母の家と自宅との往復生活は、次第に老父母との時間が優先される時期に入る。すべてを終えて(つまり父母の死。)、自宅生活のみとなった時期になってから「理解されている。」と信じていた者たちの非難を受けました。

 伊藤比呂美の娘の「あい子」は熊本の小学校に、9月から編入学させることにもなる。これはまだ初期のお話ですが、とりあえずここだけをメモしておきたい。

 (2007年・講談社刊)

大江健三郎・水死 (三椏)

2010-03-24 21:38:51 | Memorandum
   

 3月17日、東京国立近代美術館にて「生誕120年・小野竹喬展」を観たあとで、近くにある「北の丸公園」を散歩しましたが、まだ桜は咲いていませんでした。しかし「三椏」と「山茱萸」に出会いました。よくよく考えてみましたが、恥ずかしながらわたくしは初めて「三椏」の実物に出会ったような気がします。
 「季寄せ・草木花」や「植物辞典」やネット画像で見ていただけのようです。もちろん下手な写真を撮りましたが。

 その翌日から、大江健三郎の「水死」を読みはじめましたが、なんと主人公の老作家「長江古義人」の父上は村人の「栗」や「柿」の副業に「三椏」の栽培を奨励していたと書かれていました。「三椏」は紙幣を印刷する紙の原料で、内閣印刷局に納入するとのことでした。それらの紙漉きに必要な機械や道具なども父上が考案されたのだとか。ただし、これはあくまでも私小説ではありません。

 人間が長く生きていて、何が1番面白いか?と言えば、それはこうした「偶然」の出会いではないでしょうか?現実においても、書物の世界においても。まぁ、それだけのことですが、それだけが特別にもなるのだわ♪

    

 では、読書感想文(?)は後ほどに(^^)。

生誕120年・小野竹喬展

2010-03-19 23:07:22 | Art


 3月17日寒の戻りのような日に、東京国立近代美術館にて観てまいりました。「小野竹喬・1889-1979」という画家は大変穏やかな性格の方のようで、そのまま絵画に反映されているようでした。とても簡素でおだやかな絵画です。色彩は晩年になるほど温雅でありながら鮮やかさを増してゆくようでした。人間の魂というものは年齢とともに自由になって輝いてゆくのではないか?思いました。

 「小野竹喬」は1903年、14歳で京都に出て竹内栖鳳に入門、西洋近代絵画の写実表現をとりいれた栖鳳の絵画に学びました。1916年、文展で特選受賞。17歳の若さで画壇デビューをしました。1918年に、土田麦僊、野長瀬晩花、村上華岳、榊原紫峰らともに京都で設立された国画創作協会のメンバーの1人として、日本画の新しい表現を模索しました。また「ポール・セザンヌ・1839~1906」「富岡鉄斎・1837~1924」の南画などの影響を受けています。そしてほとんど死ぬまで絵筆をとっていらしたようです。展示された絵画には制作した時の年齢が記されていました。

               


 本画119点、スケッチ52点の作品がありましたが、わたくしが最も好きだったのは、1921年に黒田重太郎、土田麦僊、野長瀬晩花とともに渡欧した時に描かれたスケッチ15点と、晩年の「奥の細道句抄絵」10点(これがすべてです。)でした。この10点に付属する竹喬直筆の短冊も紹介されていました。

   
    田一枚植ゑて立ち去る柳かな


     
      暑き日を海にいれたり最上川


 詳細は「ここ」をご覧ください。


 《追記》
 「奥の細道句抄絵」ここで全点見られます。

マラルメ&ヴァスコ・ダ・ガマ 

2010-03-18 21:55:24 | Poem
      

挨拶   古井由吉散文訳・「詩への小路」より。

 ――いえ、まだ何物でもありません。このシャンペンではないが、泡みたいなもの、あるいはすでに渦巻く海の泡でもありますか。とにかく無色透明なるこの詩は、このグラスに喩えるなら、中身はさておき、輪郭つまり形ばかりを定めたものであります。空の器は空の器でもしかし、遠くの海でセイレーンの群れがこれを耳にしたら、術を破られ、多くはのけざまに海中に沈む、とそれほどのものかと自負しております。
 さて出航だ。多士済々の友よ。わたしは船尾に立った、諸兄は雷の轟く冬の荒海を押し分ける華麗な船首に就かれよ。すでに美酒に酔った心で、縦揺れにも怖じず、別れの挨拶をまっすぐに唱える。「孤独、暗礁、星辰」と。世に通るまいと知ったことか。われらが帆の、白い憂慮をここに掲げる。



頌(たたえごと)  加藤美雄訳・「マラルメ詩集」より。

華麗で、混濁したインドを越えて
航海のひたすらな願いへと――この挨拶
現代の使者、あなたの船尾(とも)が
回りつつある岬はささげられる

あたかも、帆船とともに水くぐる
なにかの低い帆桁のうえで
跳ね回りつつ、新しい陶酔の鳥が
ただ一羽、飛沫(しぶき)を浴びるように

舵柄(かじ)の方向(むき)が変わらぬうちは
この鳥の単調な鳴き声が
ひとつの無用な方角、夜、絶望
そして宝石類を訴えていた

蒼白いヴァスコの微笑まで
映しだされたその歌声によって。



 同じマラルメの1編の詩の翻訳も、翻訳者の捉え方によってこのように変わるものですねぇ。
 1498年、「ヴァスコ・ダ・ガマ」の喜望峰回りのインド航路の発見から、カルカッタに至るまでの航海の400周年を記念して、出版されたアルバム(1898年4月20日刊)に掲載されたマラルメの作品です。マラルメは同年9月9日に亡くなっていますので、おそらくこの作品が最期の作品と思われます。

 インド航路開拓以降の400年は、インドにとっては植民地支配、産業革命、市民革命、科学技術の発達などなど、大きな歴史の動きに揺り動かされ、翻弄された時代でもあったのではないでしょうか?ヴァスコ・ダ・ガマの非常に困難な航海は、実は今なお続いているのではないでしょうか?海底にはいったい何艘の破船が沈んでいることでしょうか?

 しかし、この偉大な400年前の航海者を讃えつつ、若き詩人たちにこれからの難路を示し、不安で蒼白であったかもしれぬヴァスコ・ダ・ガマの頬の色のような乾杯を捧げつつ、激励するのだった。詩の遠征のために。



祝杯(トースト)    加藤美雄訳

虚無(リヤン)、この泡、処女(おとめ)なる詩
ただ盃をさししめすのみ。
はるかかなたに、一群の人魚
あまたみだれ、溺れんとす。

わが友人(ともだち)よ、船こぎいでて
われすでに、船尾(とも)にあり
君たちは栄華に耽る船首にありて、
轟く真冬の怒濤(あらなみ)を押しわける。

すばらしき酔(えい)の虜とはなりつつ
縦揺れに惧れもみせず
この挨拶を、立ちてささげん。

孤独、暗礁、星影、
わが帆の素白(ましろ)き苦しみを
あたえしすべてのものに。


 1893年に書かれた、このソネット「祝杯」は、1898年にヴァスコ・ダ・ガマに捧げられた「頌」と深く繋がっているようです。このソネットは雑誌「ペン=ラ・プリユーム」の第7回の会合の折に、マラルメ自身が朗読したとのことです。この時マラルメは「ペン」の主幹となる時でもありました。若き詩人たちの前途を祝福するとともに、その多難をも甘受しようとしたようです。


 *       *       *

 しかし、古井由吉の散文訳は名文だなぁ。原文にはない言葉で補強したと思われますが、お見事ですね。金羊毛を探しに航海に出た「アルゴ遠征隊」の1人である「オルフォイス」と「セイレーン」との歌合戦にも繋がったイメージとなっています。

老文学者の言葉

2010-03-15 18:32:38 | Memorandum
 さて、どのように書いてゆけばよいのやら・・・。

 考えをまとめようと思ったきっかけは、NHKの2つのテレビ番組でした。まずは、3月11日PM8:00~9:30、NHKハイ・ビジョンで放映された「作家・大江健三郎」、そして14日PM10:00~11:30、NHK教育テレビの「ETV特集」「吉本隆明語る」という講演を主とした番組で、これを企画したのは「糸井重里」でした。

 前者は司会進行のアナウンサーの問いに答える形でしたので、その制約のなかでのインタビューでしたので、危なげのない結果となっていました。大江健三郎の過去の三部作である
「さようなら、私の本よ!」
「取り替え子・チェンジリング」
「憂い顔の童子」
の続編とも言える「(らふ)たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ」「水死」の2冊を書いた動機とその経過のお話でした。

 しかし、後者は大ホールでの講演が主体でした。吉本が取り上げた先人たちの紹介なども取り込んであって、テレビ番組内では1時間半でまとめられていますが、当然現実には時間オーバーの講演となりました。聴いていてもどかしいのですが、その言葉の裏にある彼の文学者としての長い日々の重さがあると思うので、離れることはできません。長い講演のあとで、ホールの聴衆は総立ちとなって拍手が長く続きました。わたくしも拍手!

 「老人は同じことを繰り返し、若者たちは言うことが何もない。退屈なのはお互いさまだ。」という「ジャック・バンヴィル」の言葉を思い出す。(←ごめんなさ~い。)

 もちろん、このお2人のお話はしっかりと聴きもらすまいとしておりましたよ。しかし大江健三郎と吉本隆明のお話は、今これを書こうと思ったきっかけであって、もっと以前から、もわもわと考え続けていたことに1つの回答を頂いたということなのです。
 ここ数年来(おそらく詩集「空白期」を出したあとから・・・)、「次に何を書いてゆけばいいのだろうか?」と考えていました。年々重なり続ける年齢(あたりまえだが・・・。)の重さ、老父母の死を見守った日々の思い出、生まれでた幼いいのちの輝くような成長ぶり、などなどさまざまなものが入り乱れる日々のなかで。


 吉本隆明(83歳)と大江健三郎(75歳)が、文学的思考の出発点となったものは、ともに「1945年8月15日」の記憶でした。「敗戦」が問題だったのではない。思考の根幹を絶ち切られた吉本青年と大江少年が、なんとかして新たに思考の根幹を獲得して、大地に立たせ、言葉の収穫を待つことに費やされた歳月がともにあったと言うことです。
 その時、お2人はどのようになさったのか?それは過去の古今東西の哲学者、経済学者、文学者の著書を読み続け、音楽家にも学びとろうとしたこと。いきなり前へ歩き出そうとはしなかったということです。そこから考えると、すでに過去の優れた人間たちの思考は今を予感していたのだ。つまり「普遍」とはそういうことでせう。

 ふと詩人清水昶の著書「ふりかえる未来」という言葉が浮かぶ。

 「未来」は追うものではないようだ。過去の豊かな堆肥のなかに根をおろし、幹を伸ばすもののようだ。吉本隆明は「木と根は沈黙である。」とおっしゃる。そして枝先にはためく葉、咲く花、実るものが「言葉」なのだろうか?リルケの「オルフォイスへのソネット」の解釈を続けたことも無駄なことではなかったようだ。


 「この世のどんな些細なことでも予断を許さない。人生はそんな小さなことも、予測できない多くの部分から組み合わされている。」・・・リルケの「マルテの手記」より。

オルフォイスへのソネット第二部・29

2010-03-11 22:28:53 | Poem
多くの静けさの静かな友よ、感じとるがよい、
おまえの呼吸が空間の広がりをさらに増し加えることを。
暗い鐘楼の骨木のなかから
おまえを鳴りひびかせよ。おまえを費やすものこそ、

力強くなるのだ、おまえという糧にはぐくまれ。
変容の境を出入りするがよい。
おまえのもっとも苦しい経験はなに?
飲むことが苦しければ葡萄酒になれ。

この 過剰からなる夜のうちにあって
おまえの五感が交わる道の魔法の力であれ、
感覚と感覚の不思議な出会いの意味であれ。

そして地上のものがおまえを忘れたら、
静かな大地に向かっては言え、私は流れる と。
急流の水に向かっては語れ、私は在る と。

 (田口義弘訳)


 さて最後の1編となりました。「ドゥイノの悲歌」は、1912年から1922年まで、10年かかって書き上げられたもので、その間には「第一次世界大戦・1914年~1918年」がありました。しかしこの「オルフォイスへのソネット」は驚くほどの短期間で書かれています。書かれた時期は「ドゥイノの悲歌」と重なっていますが。

 第一部全編:1922年2月2日~5日
 第二部全編:同年2月15日~23日

 「呼吸」「空間の広がり」は、繰り返し表れた言葉でした。リルケ独特の世界観と言うべきか?あるいは共生観とも言えることかもしれません。鐘楼の音の響きさえ、その空間世界に漣をたてる存在となる。

 マイナデスの理不尽ともいえる憎悪という苦い酒を強いられたオルフォイスは、自ら葡萄酒に変容することによって、わたくしたちを酔わせてくれるのだろう。

「夜」はあらゆる事物の形が闇に溶けるので、ようやく宇宙全体が開かれて、星座が見えるようになると、リルケは言っているのだろうか?

 さらに「存続」と「無常」についても、くりかえし語られてきた言葉ですが、人間は変容しつつ存続しうるものらしい。「流れる」「在る」との繰り返しによって・・・・・・。

 しかしながら、この最後のソネットは、ひどく抽象的に書かれています。あれこれと思いめぐらす歓びがあるとも言えますが、そう思うことの虚しさに、むしろ気づくべきなのかもしれません。

 *    *    *

 あまりにも未熟(熟成不足?)ながら、どうやら最後まできました。長い間のお目汚しで申し訳ありませんでした。「はやく読んで!」と別の本が呼んでいるようです。ではまた。

オルフォイスへのソネット第二部・28

2010-03-11 22:13:48 | Poem
おお 来てはまた行くがよい。ほとんどまだ子供であるおまえ、
踊りの図形を一瞬 純粋な星座へと
完成させよ、私たちがそのなかで、
鈍く秩序づける自然をつかのま凌駕するあれらの踊りの、

そのひとつがなる星座へと。なぜなら自然は
オルフォイスが歌ったときにのみ、ひたすら聴きいって身じろぎしたからだ。
けれどおまえは あの時よりこのかたずっと動かされている者だった、
そしておまえはすこしいぶかしがった、一本の樹がおまえとともに

聴かれうるものになるのを 長くらめらったとき。
おまえはなおもあの場所を知っていた、
竪琴が鳴りひびきつつかかげられた――あの未聞の中心を。

その中心のためにおまえは美しい足どりを試み
そして望んだのだ、いつの日かあのまったき祝祭へと
友の歩みと顔を向けさせることを。

 (田口義弘訳)


 このソネット集の扉には「ヴェーラ・アウカマ・クノープのための墓碑として書かれる。」と記されているように、この踊り子は19歳で夭逝した「ヴェーラ」のことでせう。

 「ヨハネの福音書第三章8節」に「吹き来たり、去ってゆく風」という言葉があるのですが、このソネットのはじまりの言葉に重ねられていますね。また「オルフォイス」そのものが遠くから、ひととき訪れて地上の樹木の耳や生きものたちに歌声を届けると、また誰も知らない(あるいは竪琴の弦をくぐりぬけた向こうの。)世界にかえってゆく神であることにも重ねられます。

 さらに夭折した「ヴェーラ」に対して、リルケは友人への手紙のなかで「この少女の未完成と無垢とが墓の扉を開けたままにしているので」「生の半面を新鮮に保ちつつ、それとともに傷口の開いた別の半面は開かれた緒力(=神々)に属している。」と書かれています。それは「ヴェーラ」が「オルフォイス」のいる場所を知っている女司祭であると言っても過言ではないだろう。

 最後の「友」とはリルケも含まれている。

オルフォイスへのソネット第二部・27

2010-03-10 16:57:04 | Poem
真に存在するのだろうか、破壊する時は?
いつ 静かに横たわる山の上で、それは城を打ち砕くのか?
この心、この限りなく神々に属するもの、
いつ それをデミウルゴスは暴戻に滅ぼすのだろう?

私たちは実はそれほど不安におびえる脆い者なのか、
運命が私たちに実証しようとしているように?
根のなかにやどり、未来をひめて、深い
幼時が――のちには――息をひそめてしまうのか?

ああ 無常というあの妖怪、
邪心なく受け容れる者の内部を
それは煙のように通りぬけてゆく。

私たちがそれである者 漂う者として、
しかし私たちは永続する緒力のもとで
神々の使用にあたいするのだ。

 (田口義弘訳)


 デミウルゴスの原義は「工人」。プラトーンの著作である『ティマイオス』に登場する世界の創造者である。プラトーンは物質的世界の存在を説明するために、神話的な説話を記した。原始キリスト教時代のグノーシス派の二元論によれば、デミウルゴスは感性的世界創造者であって、最高神の下位に立つ。

 「無常性」に対するリルケの問いかけには、二重の構造がみられます。頑固に自己を守ることは必ず崩される。山上の城もやがて崩れる時がくる。このようにすべてのものは無常ではあるが、かつ無常ではないと・・・・・・。
 
 破壊に身を委ねながら、滅尽を逃れる道があることが、このソネット全体における暗示ではなかったか?その暗示が「オルフォイス」ではないか?「オルフォイス」は破壊されることによって、もはや破壊されないものへ変容して、純粋に永久に存在する者なのだから。

 人間は無常であり、過ぎ去ってゆく者であることは自覚できる。それによって「永続する緒力=神々」のもとで、人間はいくばくかの働きかけができるのだろう。このソネット中の5つの「?」に対する答えとして、リルケはおだやかに最後の言葉を差し出しています。

オルフォイスへのソネット第二部・26

2010-03-09 23:31:15 | Poem
なんと鳥の叫びは私たちの心を捉えることか・・・・・・
そしておよそひとたび創り出された叫びは。
だがすでに子供たちは 自由な戸外で遊びながら
真実な叫びのかたわらを叫び過ぎるのだ。

偶然を叫んでいるものよ。子供たちはこの
(そのなかへすこやかな鳥の叫びが 夢のなかへ
人びとが落ちるように入ってゆく――)世界空間の、
その間隅に、彼らの、金切り声の、楔を打ちこむのだ。

おお 私たちはどこに存在する?さらにますます自由に
糸の切れた凧さながらに
私たちは中空をかけめぐる、風に引きちぎられた

笑いの縁を震わせて。――叫ぶ者たちを秩序に引きいれよ、
歌う神!さわだちつつ彼らが目覚め、
水流となってあなたの頭と竪琴をになうよう。

 (田口義弘訳)


 1914年、ルー・アンドレアス・ザロメ宛ての手紙のなかでも、リルケは独特の「鳥」の捉えかたを書いています。「自然のなかで、あたかも自分自身の内部で歌うかのように歌い、それゆえ私たちは鳥の啼き声をきわめて容易に内部の世界に引き込むことができる。」と。これは「内部への転向」とも言えるだろう。それは「鳥」に限らず過去のソネットに書かれていた「子供の眼差し」や「暖炉の火」にも通低するものでせう。また、リルケの詩作によく見られることですが、繰り返し同じテーマが書かれていることです。この場合の「鳥」についても下記の詩があります。


もの怖じ  リルケ(生野幸吉訳)  形象詩集(1902~1906)より

枯れた森に、鳥のさけびがひとつあがる、
そのさけびは無意味に思える、この枯れた森のなかでは。
そしてしかも、円い鳥のさけびが、
その声をうみだした刹那にあって、
まるでひとつの空のように、枯れすがれた森のうえにひろがる。
あらゆるものが素直に、そのさけびのなかにしまいこまれる。
風光の全体が、そのなかで無言に存在するかのよう、
大風が、その円さのなかへおとなしくはいりこむかのようだ。
そして先にすすみつづけようとするひとときが、
蒼ざめてしんとしている、もしもこの声から外へひとあし出れば、
そんな物らを、そのひとときが知ってでもいるかのように。


 「もの怖じ」は田口義弘訳の場合「怖れ」と訳されています。念の為。

 さらにエッセー「体験」のなかでは「鳥の啼き声が彼の外部にも内部にも同一のものとして存在しているのが感じられた。」と記されています。

 第4節で「歌う神!」と呼び出されるオルフォイスは、マイナデス(叫ぶ者たち。)の復讐によってからだを分断されながらヘブルスの河に運ばれ、やがてレスボスの島へと流れていったのですが、叫ぶ者たちは目覚めて、歌う水流となって、オルフォイスの頭と竪琴に仕える者となる可能性を担っているものとされているのではないだろうか?子供の金切り声も含めて?