佐渡 裕(鶴瓶の家族に乾杯)
(この映像をあえて選んだことには、わたくしなりの理由がある。
世界的指揮者が、その町で偶然出会った高校生の特に受賞歴もないブラスバンドを
彼が指揮すると、みるみるうちに演奏が輝いてくるという場面を目の当たりにして、いたく感動したからです。)
この著書が書かれたのは1995年、佐渡裕34歳の時です。
それが文庫化されたのは2010年、彼はすでに49歳です。
その再版にあたって、彼が書いた「まえがき」にはこう書かれています。
『今思うと、まだまだ経験値の非常に少ない指揮者であり、根拠のない自信に溢れた内容です。
本心はそんな自信なんて持てるわけなどありませんから、「自信満々」を精一杯に演じていたように思います。
あれから15年間、演じ続けると、いつの間にかその「自信満々」も板についてきたように思います。
この本は僕にとって、長い間憧れの職業だった「指揮者」を演じきるための素晴らしい台本でもあったように思います。』
身長187センチ、靴のサイズが30センチ、体重は最高100キロから現在は80キロくらい?
カラヤンやバーンスタイン、小澤征爾をはじめとして、指揮者にはほっそりしたイメージがあるのだが、
佐渡裕はフットボール選手か、と思わせるようなおおきなおのこです。でも優しいお顔です。
(のっけから、風貌を言うなんて、ごめんね。でもこの大男が大好き。ガリバーみたいだ。)
佐渡裕(1961年5月13日生まれ)は世界的なクラシック音楽の指揮者です。京都市右京区太秦出身。
父親は中学の数学教師、声楽を学んだ母からピアノと歌を教わる。小学校5年生で合唱団に入団。6年生でフルートを始め、
高校2年で世界選抜ユースオーケストラの演奏旅行でスコットランドへ。彼の音楽の原点は「母親」だったようです。
そして彼の希望通りの道を進むことに、寡黙に協力したのは父親だった。非常に幸福な子供だ。
「佐渡裕・Wikipedia」
「佐渡裕・オフィシャルサイト」
彼の経歴をみると、佐渡裕は決して音楽家として特別な家庭環境で育ったわけでもないし、
たとえば芸大を出て、親の潤沢な経済力によって留学したりという恵まれた環境とは言い難い。
ただひたすら音楽が好きで(狂おしいほどに。)彼を突き動かすなにかがあったとしか思えない。
それはほとんど狂気に近い。雑草のような男が世界的指揮者への夢を果たした。
それは才能とともに、彼から滲み出る情熱に周囲の人間をも動かすなにものかがあったのではないか。
まずご両親。
わたくし自身が高校教師(数学&物理)の娘でしたから、家計状況はほぼ想像がつきます。
しかし、小澤征爾の助言「あんたね、バカじゃなかったら親に借金しなさい。」によって、
父親は「2年間くらいの留学ならばなんとかなるやろ。」「そうね。」と簡単に承諾してしまうご両親。
そして、音楽プロヂューサーの佐野さん。
彼は、中企業程度の社長さんに佐渡裕への送金を承諾させる。(ご両親の送金だけでは無理だと?)
そして、佐渡裕は副指揮者とか、音楽指導などでなんとか生活していたが、
そこから解放されて日本を出ることに。
それから「バーンスタイン」。
まだ若い佐渡裕は語学が未熟だった。指揮者の意志を演奏者にどう伝えるか苦しんでいる彼。
さらに「日本人であること。」はクラッシック音楽の世界ではコンプレックスにもなりうる。
「バーンスタイン」は、そうした彼と相撲の四股を踏み、仕切りをして、ただ四つん這いになって体に触れず、
ただ睨みあい、佐渡裕にパワーを送った。(相撲を思いついたのは彼の体格ゆえか?)
あるいは「能」に例えて、日本人の感性と、表情や所作の美しささえ伝えた。
「バーンスタイン」の有名な言葉。
「オレはジャガイモを見つけた。まだ泥がいっぱいついていて、すごく丁寧に泥を落とさなくてはならない。
でも、泥を落としたときには、みんなの大事な食べ物になる。」(ジャガイモは勿論、佐渡裕である。)
そして「小澤征爾」。
彼は日本人指揮者として、彼を大事に見守り、導いていた。
「きったない棒を振るんですけれどね。それでもオーケストラが鳴るんですよね。」と、彼をこの世界に押し出してくれた人。
そして小澤征爾は「彼の歳に自分はあれほど振れなかった。」ともおっしゃる。
* * *
書きたいことは山ほどあるけれど、ここまでにします。最後に……
「指揮者」とは、「二十叉路」くらいの交差点で交通整理をするようなもの。
体力、鋭敏な運動神経、そしてなによりも指揮者は命令ではなく、命令を表しうるもの。
(2011年第5刷・新潮文庫)