ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

君たちはどう生きるか 吉野源三郎

2010-09-25 02:24:33 | Book
かつて、1935年から編纂の始った「日本少国民文庫・全16巻」は新潮社から2年間をかけて配本されたもの。
その第1回配本は、山本有三の「心に太陽を持て」だった。そしてこの「君たちはどう生きるか」は最後の配本であった。
これは山本有三が執筆する予定であり、16巻のなかで「倫理」についての本という役割を担っていました。
しかし、山本有三は病いのために書くことができず、この企画の編集主任だった吉野源三郎が書くことになったといういきさつがある。

この時代背景は……
1932年、満州事変。1937年、盧溝橋事件→中日事変。1945年、敗戦。
ヨーロッパでは……
ムッソリーニやヒットラーのファシズム政権の時代。
第2次世界大戦が世界中を覆う時代に、この本は出版されたことになります。

偏狭な国粋主義よりも、自由で豊かな文化を。ファシズムよりもヒューマニズムを。
この希望を少年少女たちに託した本だったというわけです。
はっきり言います。昔の出版社は偉い!今は大方「ランキング」で出版は動いている傾向にあるのはあまりにも貧しい。

以前に書いた「クオレ-愛の学校(上下) アミーチス」の日本版のような印象もありますが、
イタリアでの出版年は1886年。初邦訳は1902年(明治35年)ですから、この関係はわかりません。

主人公は中学2年生の本田潤一(コぺル君)。
2年前、大きな銀行の重役だった父親を亡くし、旧市内の邸宅から郊外の小さな家に引っ越してきました。
それでも、母親とばあやと女中さんとの4人暮らしの生活です。
近所には法学士である母親の弟が住んでいて、彼が「コぺル君」の精神的な成長を助けています。
中学校の友人には、正義感の強い北見君、大金持の水谷君、豆腐屋を営む両親を手伝いながら学校へ通う浦川君などがいます。
母親やおじさんに見守られながら、学校生活や友人の生活のなかから「コぺル君」は様々なことを考えるのでした。
それらに対して「おじさんのノート」が必ず答えて、さまざまな人間の生き方が書かれています。

大きな世界での自分の位置や存在について、あるいは「ナポレオン法典」の素晴らしさ、
それから友人関係における「正義」と「勇気」について、友人の貧富の差を超える友情などなど。
課題は尽きない。「コぺル君」は最後には「おじさんのノート」のように、
自らもノートを書くことをおじさんに約束するのでした。
話すことを書くことに変えることは、大きな成果ではないか?「コぺル君」の心と体の成長は草木のように健やかだ。

そして再度語りかけよう。「君たちはどう生きるか」と……。

最後には、丸山真男による『「君たちはどう生きるか」をめぐる回想―吉野さんの霊にささげる』という
詳細な長文も収録されています。しかも再掲にあたり丁寧な書きなおしと追記とが書かれています。
丸山真男のこの本に対する真剣な眼差しが見えるような文章でした。


 (2009年第61刷・岩波書店刊)(初出版・1937年7月・新潮社刊)

悪貨 島田雅彦

2010-09-22 20:58:56 | Book
読後、グレシャムの法則にある 「悪貨は良貨を駆逐する」 という言葉が頭のなかをかすめた。

推理小説かと思われるストーリー展開は、今までの島田雅彦の小説とは少し異質なものを感じる。
しかしこの感覚は「マイナス」ではない。展開は見事なものだったと思う。
さらに島田雅彦が小説の背後から、引きづり出そうとしている「テーマ」は一貫しているとも思う。
この「悪貨」のストーリーのなかから、引きづり出そうとしたものは、すでに病みはじめている日本と中国の経済社会であり、
その大いなる危機をコントロールできない「政府」と「金融業界」と「検察」の弱腰と体面保持です。
それが、今日から未来へと予測された形で書かれています。

巨額な富を得る者と、貧しき者とはいつの時代にも存在する。
そして貧しき者のエネルギーが、じりじりと暗い燃焼を引き起こす時、
巨額な「悪貨」が経済界を翻弄することになるのだろう。
そして、この小説になかでは「偽札探知機」を見事に潜り抜けてしまう「偽札」が、際限もなくばらまかれ、
日本経済はみるみるうちにインフレを起こしてゆく。

偽札は中国で作られ、日本にばらまかれた。
中国で偽札造りに手を貸した者は、日本人の優れた印刷工であり、倒産した印刷工場をやむなく失職した「後藤=ゴトウハンド」。
それをばらまいた男も、日本人の「野々宮」であり、14歳で孤児になった境遇であった。その元締めは中国人。
そしてまた、その偽札を自らの眼で見抜いた若者は、「後藤」がかつて働いていた印刷工場の息子「フクロウ」だったという繋がりがある。

さて、もう一つの繋がりがある。
14歳の孤児の「野々宮」を救った「彼岸コミューン」という組織の代表「池尻」という男である。
このコミューンとは、過疎村、耕作放棄地、廃園となったテーマパークやゴルフ場を買い上げて、
「有機農業」「植林」「畜産」などを推進するコミューンであり、それは海外にまで及ぶ。

この「彼岸コミューン」の組織の急速な巨大化と、その経済力を支えていたものは、実は「野々宮」だった。
「銭洗い」という言葉がある。偽札を日本の銀行に振込み、それを引き出す時には、すでに本物の紙幣に替っているということ。
かつて「コミューン作りは貧しさとの闘いで負ける。」と言っていた友人の言葉を思い出す。それが本当だろう。
理想のコミューンによって、巨大な富を築くことはありえない。
もしもそれが可能だとしたら、「献金」に活路を得ている「新興宗教団体」と変わりはないだろう。

さて、こうした錯綜する人間の関わりのなかで、深刻なインフレは創り出され、それを止めることができる者はいない。
「政府」「金融業界」「検察」も手が出せないのだが、「悪役」を仕立て上げることが必須だった。
その「悪役」退治によって、インフレが解消されるわけではないが、国民に、日本のトップが懸命に対処していると見せかけるためだ。
そのターゲットは「彼岸コミューン」と「後藤=ゴトウハンド」だった。
そして中国の偽札造りのトップにいる中国人「郭解」には、手が出せない。
「野々宮」は「郭解」の命令で殺される。

警察の潜入捜査に働いた婦警「エリカ」は「野々宮」に近づき、二人は哀しい恋をしてしまう。
しかし、この二人の愛のなかにだけ、「信じる」という言葉が生きていたのは救いでもあった。

奥泉光の書評がおもしろい。(アサヒコム)より。

 (2010年第1刷・講談社刊)

田中一村 新たなる全貌

2010-09-20 22:02:41 | Art
       


15日、「千葉市美術館」の開館15周年記念の特別展として、「千葉」にゆかりの深い日本画家「田中一村 新たなる全貌」を観てまいりました。

1908年(明治41年)、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
1913年(大正2年)、一家で東京へ。
一村は若くして南画(水墨画)に才能を発揮し、7歳の時には児童画展で受賞(文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を描く。
「大正15年版全国美術家名鑑」には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。

1926年(大正15年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。
南画を描いて一家の生計を立てる。

1938年(昭和13年)、祖母、姉、妹とともに千葉市に転居。ここで20年を過ごす。
1947年(昭和22年)、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。
その後、「日展」や「院展」などで落選が続き、中央画壇への絶望を深める。

1955年(昭和30年)、西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。
1958年(昭和33年)、50歳の時、単身奄美大島の名瀬市に移住。
移住してからの1年間は「国立療養所・奄美和光園」官舎に間借りしていました。「和光園」とは「ハンセン病療養所」です。
ここでは、和光会発行の「和光」という雑誌(おそらく同人誌か?)の表紙絵を描いたり、同園入所者や職員の家族の古い写真をもとにして、みごとな肖像画をたくさん描いています。
家族と離れて療養所に暮らす方々に大変喜ばれました。

1959年(昭和34年)名瀬市有屋の借家に転居。
大島紬の染色工で生計を立てながら絵を描き続ける。作品の多くはお世話になった方々への返礼として描かれたものでした。
農作業風景や海、熱帯のさまざまな植物や鳥、蝶など。この奄美での生活のなかで一村はようやく独自の画風を確立したように思う。

奄美以前の画風には、不安定な波があって、迷いが見られます。
また、生活のために、注文で描いた襖絵や天井画などに見事な作品を残しているということもあったのですが。
生涯家庭を持たず、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
「千葉市美術館」における展示作品は約250点。

それにしても、奄美時代に描かれた独自の作品群は見事だとしか言いようがありません。
圧倒的な奄美の自然の力に対して、一村は静かに(あるいは死までも心の底に据えて…)向き合っています。
過去の作品とは違い、日本画を超える日本画となっています。

1977年(昭和52年)、逝去。墓所は栃木市の満福寺。

没後100年を契機として、一村の生涯と作品の調査にあたったのが「千葉市美術館」ということです。
これは一村の研究についての充実した基盤となったわけです。

クオレ-愛の学校(上下) アミーチス

2010-09-18 22:33:49 | Book

翻訳:矢崎源九郎

イタリア出版年:1886年
初邦訳:1902年(明治35年)

「愛の学校」というタイトルに定められたのは、1912年(明治45年)「三浦修吾」訳による。「クオレ」とは、「愛」「真心」という意味です。

イタリアのトリノにある町立小学校4年生(10歳・男子のみ)の「エンリーコ」が、10月の始業式から翌年7月の学年末までの、約1年間の学校生活と先生や友人について書いた日記です。その日記の合間には父親や母親あるいは姉からのメッセージが時折書き加えられていたり、「毎月のお話」が丁寧に記されています。
その「お話」のなかには、我々がよく知っている「母をたずねて三千里」「ちゃんの看護人」などの有名な児童文学もあります。

7月の学年末には試験と面接があって、数人の子供が進級できないという厳しい状況もあります。

さらにこの日記が書かれた時代背景も考えてみなくてはなりません。

サルディーニャ王国の第7代の王「カロス=アルベルト・在位1831~1849年)が、民族解放を推進して、息子の「ビットリオ=エマヌエーレ2世・在位1849~1861年)がオーストリアの圧迫から守りぬいて、1861年、イタリアが統一されたという歴史があります。
それ以前のイタリアは7つの国にわかれていて、それぞれが外部からの圧迫に苦しんでいましたが、ここで統一され、安定したイタリア国家が築かれたわけです。

その最も幸福で安定した時代において、これからのイタリアの平和を守るために、おそらく、まずは子供たちの識字率の向上とともに、さまざまな知識を与え、幸福なイタリアを守るための教育に、国全体が力を注いだのではないか?と思われます。
またこの時代の平和がどのように訪れて、その陰には膨大な犠牲者がいることも教え、その人々への感謝なくして生きてゆくことはできないのだという教育もありました。

この時代はまだ「王国」でした。民主主義の時代ではありません。
しかし「トリノ」に転校してきた「ガリブリア」の少年を、三色の国旗のもとで
差別は許さないという教育もありました。しかし、イタリア全体の貧富の差はまだ大きいのでした。

しかし、2冊の日記全体から語りかけてくるものは、どの時代においても子供というものは変わりありません。
意地悪でお金持ちの子供、貧しくて勉強のできない子供、弱い立場にいる子供を守る勇敢で知的な子供、「エンリーコ」のように、家族の愛に恵まれ、経済的にも豊かな環境で、バランスのとれた人間関係を築くこともできる子供もいます。

今日の日本の子供世界は、「勇気」や「正義」を表に出す子供が不在だということです。
「いじめ」「自殺」「登校拒否」などなど、「エンリーコ」の周囲にはありませんでした。

   *     *     *

作家の大江健三郎は、お孫さんが誕生してからは「児童文学」をふたたび読みはじめたということをどこかで読んだ記憶があります。それを思い出しつつ、わたくしも読んでいました。
いつの日か、この本をYくんが読むかもしれません。
2度とない子供時代が、どうかよい思い出に満ちたものでありますように。
大人になって、子供時代を振り返って、その時代背景を再び思うこともいいかもしれません。


 (上巻2007年5刷 下巻2007年4刷 偕成社刊)