ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

野口シカの手紙

2013-07-23 17:06:56 | Letter



おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京(勉強)なぼでも。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドかはやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。


  《明治45年1月21(3?)日付》



この手紙は、留学中の細菌学者野口英世に宛てた母上の手紙です。
母上は字が書けませんでしたが、遠く離れた息子との文通のために、初めて字を習い覚えて、たどたどしく書いた手紙です。


田村隆一の詩「帰途」には・・・・・・

   言葉なんかおぼえるんじゃなかった
   言葉のない世界
   意味が意味にならない世界に生きてたら
   どんなによかったか

という一節がありますが、これは言葉を突き詰めてしまった詩人から発するものと思えます。

忘れられない永瀬清子の一文がありましたが、その本がどうしてもみつからない。
記憶をたよりに書きますと、それは少女期の永瀬清子が母親に向けて語ろうとしたがどのようにしても伝わらず、
地団駄を踏む思いだったという体験です。
幼い子供の持ち得た言葉だけでは、あふれる心のうちを母親に伝えることに、追いつけないことだったのでしょう。
そのはがゆさが、永瀬清子の「詩」の出発点だったという一文でした。

こうした言葉の出発点あるいは到達点に近いところで、詩人たちはこんな風に言葉と向き合うものなのでしょう。
しかし、野口シカは、たどたどしく、数少ない、習い覚えたばかりの言葉によって、
その言葉以上の心のうちを伝えてわたしを圧倒してきます。
人間は生涯に一編まったく作為のない、うつくしい詩を書くものなのかもしれません。
この一通の手紙は、詩を書き続けた者のかかえている「澱み」を恥じるような散文詩です。
「はやくきてくたされ」の繰り返しは哀切です。


資料315 野口英世に宛てた母シカの手紙

引っ越し6年目の憂鬱

2013-01-08 00:15:01 | Letter


今の住所に変わってから、今年で6年目に突入。
しかしながら、今だ旧住所に届く手紙がある。
1年間は郵便局の転送手続きで、なんとかやり過ごしたけれど……。
そのあとはどうにもならない。

何故か?
旧住所に住んでいる者が同姓だから。
しかも4丁目から3丁目にに引っ越しただけなので、4丁目に届く手紙はそこの住人が配達してくれる。
……というわけで、手紙の送り主のもとへ返送されることがない。

その事情を書いて、何人に住所変更のお願いの手紙を出したことか?
勿論、転居案内の手紙は出しました。
引っ越し後の初の年賀状にも「住所変更しました。」と書きました。
それでも旧住所にお手紙&年賀状が今だ届く。
結局、手紙が返送されないからだろうなぁ。

それにしても、今年の年賀状にも今だ旧住所のままな方がいらっしゃる。
たくさんの年賀状なので、1枚づつ丁寧に読んでいらっしゃらないか?
あるいは住所録の変更をなさっていないのか?

ちなみに、わたしくしの年賀状の書き方、および管理方法。
年末に届く喪中葉書は、その年の年賀状にホチキスでとめておきます。
引っ越し案内のお手紙も同じ方法でやります。
そして、さらに去年の年賀状を見ながら住所確認しながら
1年の経過を感じつつ……書いています。

そして寂しかったこと。
高齢になった方の最後の年賀状を受け取ったこと。
もちろんわたくしにも、その時は来ることでせう。
たくさんのお手紙を書くことが心身ともに辛くなる日が……。

謹賀新年

2013-01-01 23:15:00 | Letter
   


   いわというには
   ちはとおく
   のはなにたちどまり
   るのほしをみあげ
   みのかぜにふかれ
   じのいろをかぞえ
   はらにねころんだり……
   じゃくなこころに
   うふのたくましいうでと
   んしょうなけもののあしをかりて
   おいみちをあるいてゆく


          2013年元旦

大晦日

2012-12-31 21:28:04 | Letter




今年最後の夕暮れです。ヤコブの梯子……よい予感。



富士山の麓に夕日が落ちて、その光が富士山の後に大きな影を作りました。
富士山の向こう側はどんな風景が広がっているのだろうか?


本日の午後はゴミ収集車が最後のお仕事をしていました。
夜には消防局の車が鐘を鳴らしながら「火の用心」と伝えています。
私たちは様々な方々に助けられて生きているようです。

よいお年を!

ご挨拶

2012-01-03 12:36:39 | Letter


ずと
んぷと
のちと
いきょと……しかし
ものたかみへのぼり
いいをつげるもの
もをさらにこえて
るかなてんくうへ
まえをつげるものがいる
まこそは「たつ」と。

 (赤文字は、鶴見俊輔の言葉の一部を引用しました。)



これにて2012年お正月のご挨拶と致します。
みなさまのご健康をお祈り致します。

お知らせです。

2011-06-14 21:38:33 | Letter


わたくしの本宅は目下時間のかかるメンテナンス中です。
しばらくはごめんなさい。

こちらのブログだけは、本宅から独立していますので、こちらからお伝えしておきます。
どうか、アクセス禁止だと勘違いをなさいませんようにお願いいたします。

……とはいえ、わたくし自身もメンテナンスが必要のようですので、こちらもお知らせして失礼いたします。

ではまた。

若き女性への手紙  リルケ

2010-12-25 01:19:51 | Letter


 「リルケ」と「リーザ・ハイゼ」との往復書簡は、1919年「ベルサイユ条約」調印式によって、第一次世界大戦が終息した時期の1年前の1918年から1924年まで続きました。「リルケ」はスイスにいましたが、「グラウビュンデン、ソリオ」「ロカルノ(テッシン)」「チューリヒ州、イルヘル、ベルク館」「ヴァレリー州、上ジエル、ミュゾット館」と次々に住いを変えていますが、「リーザ・ハイゼ」からの手紙はもれなく届いているようです。最後の「ミュゾット館」において、1914年以来中断されていた「ドゥイノの悲歌」が1922年に完成され、それと時期が重なるように「オルフォイスヘのソネット」も完成します。1923年、この2冊が「インゼル書店」から出版されます。

 この往復書簡の始まりは「リルケ」の「形象詩集」を読んだ「リーザ・ハイゼ」が感動して、未知の詩人に手紙を書いたことから始まります。残念ながら2冊の本にあたりましたが、「リーザ・ハイゼ」の手紙は省略、あるいは簡単な説明があるだけでした。手紙好きの「リルケ」ではありますが、こうして未知の女性に真剣に優しい言葉を書き送るという厚意は稀有なことに思えます。若くして両親のもとを離れ、その後、夫はなく1人息子と共に真摯に生きようとする彼女(=自然を生きるということ。)への尊敬と危惧を抱きながら、送られた手紙でした。最終部分では「リルケ」はすでに病んでいます。


 リルケの第1信ではこのように書かれています。

芸術作品と孤独な人間とのあいだに起こるこの欺瞞は、太古以来神の所業を促進するために聖職にある者が用いてきたあの欺瞞と相通ずるものがあります。(中略)ですから私の方でも、あなたに劣らず正確に立ち向かいたいと思い、ありきたりのご返事ではなしに、心に触れたありのままの体験をお話しようと思います。

・・・と長い時間をかけて続くであろう、この往復書簡の予感をすでに書いています。

 最後の手紙は不安を残しているようです。これは「リーザ・ハイゼ」の転々と変わる境遇への不安、それを見届け、手を差し伸べることの出来ない「リルケ」自身への不安でしょうか?

あれほどに力を注いで素朴な、価値ある仕事をなさったあとで、謙虚に、しかしやっぱりなんらかの形で認められたいという純粋な期待を持ちながら立っておられるあなたには、偽りのものが語りかけたり、触れたりすることはできるはずがない――と思います。

 
(1994年「世界の文学セレクション36」所収・中央公論社刊)
 (翻訳:神品芳夫)

(平成19年・第62刷・新潮文庫「若き詩人への手紙・若き女性への手紙)
 (翻訳:高安国世)

ご無沙汰しました。

2010-11-03 23:47:46 | Letter
10月30日朝、目が覚めたら右目が真赤に……涙がぼろぼろ。。。その上かなり痛い。
あわてて眼医者さんに行きましたが、目の表面が傷だらけ。原因不明???

目下、治療中です。とりあえず眼帯からは解放されましたが。

こんなささやかな日記でも、読者がいらして、書かない期間が長引くと心配してくださる方もいらっしゃるので、ご報告しておきます。
本も読めず、パソコンも長い時間は疲れます。しばらくの休憩です。

視力への影響はありませんので、怪我の治るのを待つようなものですので、ご心配なく。
では、おやすみなさい。

 *    *    *

これは今日の午後の秋空の美しさに思わず撮りましたが、目の負担は大きかったようです(^^)。


遅れてきた夏休み

2010-08-19 23:55:48 | Letter
8月15日までなんとか頑張って書いてきましたが、この辺でしばらく夏休みとします。
子供たちはまだ夏休みですね。それに倣って遅い夏休みとします。最後に・・・・・・。

大王が海賊に「海を荒らすのはどういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆するところなく「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊と呼ばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝と呼ばれているだけです」と答えた。

 (アウグスティヌス・「神の国」より)

ポルトガル文

2009-09-29 13:43:59 | Letter
 
ドイツ語訳:リルケ
邦訳:水野忠敏


 これを短編小説と言うべきだろうか?ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」が、彼女を置き去りにして、帰国してしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙ですので、虚構の短編小説ではありません。まずはフランス語に翻訳されて、それをリルケがドイツ語訳をしたのですが、元の手紙はフランス語訳の後で、行方不明です。リルケはこの手紙を、ドイツ語訳をする際に、この手紙を1つの文芸作品として高めることをしたように思えてなりません。

 「マリアンナ・アルコフォラド」は、尼僧とは少し違う立場を生きた女性のようです。アルコフォラド家は名門であり、恵まれた環境のなかで1640年に生まれました。当時の戦乱の時代には、子女を修道院に預けることが最も安全な道だったのです。彼女は、ベジャーのクララ教会修道院に入れられました。その上、財産家の父は娘のために、修道院の敷地内に、街路に面した特別な建物を建て与えたそうです。「マリアンナ・アルコフォラド」は、今日では想像もつかないほどに自由な生活だったわけです。

 彼女の恋の相手は、数々の武勲に輝く、若くして大佐となったフランス軍の「シャミリー・ノエル・ブトン・1636年生まれ」。スペインの支配から脱しようとしていたポルトガル軍を助けるために、彼の属する部隊がベジャーの町に進駐したことがはじまりでした。この時期ポルトガルの子女がフランス軍人に強い関心を抱くことは、必然のことだったのでしょう。

 その美しい武人に去られた彼女の5通の手紙は、悲嘆と怨み事に終始していましたが、すべての思いを書きつくし、最後の5通目の手紙できっぱりと別れを告げています。ここをリルケは「マルテの手記」のなかで「男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。」と書いているのでしょう。

 この5通の手紙が当時の社交界で話題になったことは当然のことで、彼女を置き去りにした武人の手紙があったとされたり、5通以後の手紙が創作されたりと、この手紙にはたくさんの逸話もどきが流布しましたが、おそらく「リルケ」がこの5通のみの手紙を、彼の「愛する女性像」の1人として、翻訳されたのでしょう。それにしましても、この5通の手紙が、1編の小説のごとく何故ここまで時を超えて残されたのでしょうか?

(昭和36年初版・平成2年再販・角川書店刊)