ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな

2014-07-11 00:46:39 | Haiku

こんな季節に、こんな句を見つけてたの。


 ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな  小澤實


楽しい句ではあるが、解釈はいろいろありそうな気がする。
しかし「ぶりきのなみ」という表現は、ブリキの湯たんぽに必ずある、あの波型のでこぼこではないか?

 こんな感じの。

だから「あはれ」は湯たんぽの劣化した状態を指すだけだとすれば、つまらないわ。
わたしだったら「あはれ」は、湯たんぽにある波型を男性の肋骨に例えたら面白いと思う。
(ごめんなさいね。)

つまり。寒い夜に、湯たんぽをじーっとみていた。
湯たんぽの波型から、痩せ細った男性の肋骨を思い浮かべた。
それで、なんだか悲しくなった。

すみませぬ。

家ぢゆうの声聞き分けて椿かな  

2014-04-14 13:08:48 | Haiku


いやはや、今更言うほどのことではないが、俳句17文字の世界の解釈は様々である。


家ぢゆうの声聞き分けて椿かな  波多野爽波  『骰子』(昭和61年)所収



まず、声を聞き分けているのは作者自身であり、その声は家族の声であるという設定。
椿は家の外に咲いている。家の内外ということで空間は広がる。
椿自身が声を聞き分けているということは瞬時の幻覚であるという解釈。


その次の解釈は、椿は部屋に活けられている。
筆者自身は病癒えはじめた時期であり、床のなかにいる。
そして家じゅうの声を聞き分けているのは椿であるという解釈。


わたくし自身の勝手な解釈では、筆者は書斎にいる。
その窓辺には椿の花が見える。
家族の声が時折聞こえてくる。
その声の合間に「ポトり」と椿の落ちた音が聴こえる、というのはどうか?

藤沢周平句集

2014-02-04 21:09:28 | Haiku


藤沢周平(1927年(昭和2年)12月26日~1997年(平成9年)1月26日)という名前を目にすると、
わたくしは深く懐かしい思いに沈んでしまう。

それは80代に入ってからの父が、今までの読書傾向をがらりと変えた時期であった。
すでに病んでいた父は書店に出かけることもなくなっていました。
そしてわたくしが代理に買ってくる本がことごとく父の好みから除外されたのには驚いた。
思案に暮れて夫に相談したら「藤沢周平はどうか?」という意見でした。
その時ふと思いだしたことがありました。
ある編集者の方のエッセーに、詩人のSさんが病床にて藤沢周平の本を読んでいたと書かれていました。

それが大当たりでした。父の読書は急激に早くなりました。
私の書店通いも急激に増えて、書店の「藤沢周平」の文庫コーナーを網羅した感がありました。
藤沢の静かな深い人間愛が、架空の歴史小説のなかに流れていました。
それは病む父の心を慰めてくださったのでしょう。
しかし、俳句を好んでいた父にはこの本はまだ出版されていなかった。間に合わなかった。


藤沢作品に多く登場する架空の藩「海坂藩=うなさかはん」は、
実は藤沢氏が初めて参加した俳句誌「海坂」からとったものでした。
そこで昭和28~29年の2年間ほど真剣に句作した時期でもあったようです。
さらに「海坂」とは、水平線のゆるやかなカーブのことだそうで、美しい言葉です。

この本のなかでは、俳句のページは3分の1ほどで、俳句誌「海坂」と「のびどめ」に掲載されたものです。
それ以外は俳句と俳人にまつわる随筆です。
これらの随筆のなかで最も興味深く読んだものは「一茶」執筆時の、
著者による俳人像を方向づけてゆく過程であった。

以下は、藤沢周平の俳句の抜粋です。(個人的趣味によって…。)

 
桐の花咲く邑に病みロマ書読む (海坂)
水爭ふ兄を残して帰りけり
汝を帰す胸に木枯鳴りとよむ
桐咲くや掌?るゝのみの病者の愛
梅雨寒の旅路はるばる母来ませり

はまなすや砂丘に漁歌もなく暮れる (のびどめ)
枯野はも涯の死火山脈白く
微かなる脳の疲れや薔薇薫る
黒南風の潮ビキニの日より病む
葭簀(よしず)よりはだか童の駈け出づる

舊友(きゅうゆう)の髪の薄さよ天高し (拾遺)
花合歓や畦を溢るゝ雨後の水 (湯田川中学校碑文)


 (平成11年3月20日 第1刷)

俳句航海日誌 清水昶句集 ③

2013-12-19 17:06:51 | Haiku



秋晴れが凄いわ体操でもしてみたら   2003/9/4


呑んでばかり、本を読んでばかり、あるいは俳句を詠んでばかり、パソコンの前に座ってばかり……
こういうおのこは妻にとって時には、うっとおしい存在である。
秋晴れの朝、妻はこう言いたいものである。
それをおのこの側が見事に詠ってしまった。昶さんは一枚上手であった!


バリカンの白髪散らすや秋の風   2008/8/15


ついでに、そのぼさぼさの髪も切りませうか?笑。


かなかなかなかなかなかなかな帰へり道   2002/9/16


書きうつすのに苦労しましたが、さらに翻訳します(笑)。
かなかな、かな? かなかな、かな? あれ?「かな」が1個残ったなぁ。
……そうやって帰り道に指折り数えている内に……


かなかなや最終バスに乗り遅れ   2002/9/29


……ということになってしまったなぁ~。


昼酒を酌み厳粛に蠅叩   2003/5/29


天野忠の詩「端役たち」を思いだしてしまった。

いずれにしても、ほとんど無用と思われる「蠅叩」に、見事な役割を与えた天野忠の詩であり、
清水昶の俳句であった。
「蠅叩」は昼酒を呑むおのこが、厳粛に持つものであろうか(笑)。
雪積む季節に持つものでもないのだけれど、見事な演出によって、おのこの生きる滑稽さが表現されている。
昶さんでなければ、この句はうまれないだろうなぁ(笑)。 


ふらここに乗る老人の憂鬱かな    2005/1/9


昔の白黒映画に、「いのち短し恋せよ乙女」と歌いながら、
ふらここを揺らしていたおのこがいた。映画のタイトルは失念。
少女が漕ぐふらここは明るい風景になるが、
老いたおのこが、「漕ぐ」ではなく「乗る」風景は寂しいものがある。
2011年5月に、70歳で亡くなられた清水昶さんには、少し早すぎる風景ではないか?

俳句航海日誌 清水昶句集 ②

2013-11-09 12:28:37 | Haiku




  青空の穴より小鳥こぼるゝや

 

「神さまは雀一羽の死もご存じです。」という言葉を映画のなかで聞いたのは、この一句に決めたその翌日であった。
小さな鳥は天に放てばたちまち天に抱きあげられ、落ちてくる時には、そこに小さな空白を置いてくるに違いない。
「小鳥こぼるゝや」という表現がなんとも愛おしい。

詩人清水昶氏は、多面体の書き手であった。
虚無も無頼も少年(少女も含めて)も郷愁も合わせ持ち、
そして幼い者や小さな生き物に注がれる温和な父性の視線も見逃せない。

詩から俳句の領土への移行のなかで、それでも尚残る詩の残り香が、
清水昶氏の俳句に独特の世界を創りあげていた。
その世界にふいに小鳥がこぼるゝのだった。
ここで書き手は掌を差し出しているに違いない。小鳥を受け止めるために。

詩集「詩人の死・一九九三年刊」には
「亡霊になってはじめて人間は生きているみたいになつかしい」という詩の一節が書かれていました。
昶氏は驚くほど「死」に対する関心が強い方でした。
しかしご自身の「死」は、ふいにこぼれてきたのではないか?と思えてなりません。

「神さまは昶さんの死もご存じです。」


 (俳句誌「百鳥」2013年11月号・所収)

俳句航海日誌 清水昶句集 ①

2013-09-03 17:00:01 | Haiku


清水昶氏は、2011年5月30日、心筋梗塞のため東京都武蔵野市の自宅でご逝去。70歳でした。
そして、詩人清水昶さんは、詩から俳句に移行なさって、約13年間ネット上において、
お亡くなりになる前夜まで、膨大な俳句(約35000句)を残されました。
それをまとめたものが、2013年5月に「俳句航海日誌」という遺稿句集として出版されました。
俳句の収録数は厳選の結果947句となりました。版元は「七月堂」です。

その俳句の一部だけでも、つたない鑑賞ながら書いてみます。 


百の時計百の遺志以て鳴る寒夜   2002年1月19日付



この句は、遺稿句集には「百の時計百の意志以て鳴る寒夜」と掲載されています。
わたくしの過去のメモから見つけた句ですので、どちらが正しいのか今は確かめようもありません。
あるいは、2度書かれたとも考えることもできます。
しかしながら、わたくしの考えでは「遺志」の方がふさわしく思えてなりません。   

野の舟はまだ漂い続けているのか
うつくしい少女はまだ目覚めないままか
時間は遅れることもなく
急ぐこともなく
やがて男の内に遺志の音を鳴らす



悪童と闇を取り合ふ蛍狩り   2002年8月14日付

   

この句は昶さんの悪童時代を彷彿させるような句ですね。
おそらく蛍を追いかけて、悪童たちが捕獲数を競い合っていたのではないか。
しかし、それは「闇を取り合う」ことにもなりうるわけですね。
陽に焼けた少年たちの腕や足が、大きな闇をかきまわし、押して、切り裂きながら、そしてふいにひっそりと、小さな光を追いかける躍動感あふれる様子が、一枚の絵画のように立ちあがってくる。




  《朝日新聞・8月11日付・「歌壇、俳壇」のページより切り抜き》


生まれたるかげろふたれの終命か   2000年8月20日付


        
この句に多くの方々は詩人吉野弘の「I was born」を重ねて思いだされるかもしれない。
わたくしも当然そうだったけれど。
夏に交尾と産卵を終えれば、数時間後に死んでしまうかげろふ。
その後幼虫は2~3年を水中で生きて、成虫に羽化する。成虫の寿命は数時間から数日と短い。
かげろふの誕生は、死と引き換えであることから逃れる術はないのですね。

生と死とはいつでも抱き合っているようです。


「I was born 吉野弘」 ←←ここをクリックしてね。

    

骨格の正しき町に女下駄    2000年8月20日付

                
        
硬質な風景かしら?と思うけれど、描かれているものは違うようだ。
高層ビルが立ち並ぶ風景ではなく、しっかりとした木造の家並みが思い浮かぶ。
家々の屋根や庇、あるいは腰板などに、大工の卓越した技術がはっきりと見えるような……。
そんな町並みに、女下駄の音が響く。
音は空間をかーんと移動するが、骨格の正しき町は微動だにせず。



良く笑う旧正月の赤ん坊   2005年5月28日付
       


旧正月は、今日の暦のうえでは、1月22日ごろから2月19日ごろまでを毎年移動する。
何故、赤ん坊が旧正月によく笑うのかはわからないけれど、赤ん坊が笑うことで「旧正月」という言葉に
ぬくもりが添えられるようだ。周囲の人間たちが福福と笑う情景までが想像できる。
昶さんは小さな子が好きだったなぁ~と思いだす。思わず微笑みたくなる一句。

(つづく)

「帝国」という時代

2013-06-22 02:21:24 | Haiku



履歴書に残す帝国酸素かな   (摂津幸彦)


攝津幸彦(せっつ ゆきひこ)は、1947年1月28日生まれで1996年10月13日に49歳の若さで病死なさったようだ。
この生年から考えると、彼は戦後生まれで「帝国」とは無縁の人生を送っていると思われる。

1930年 - 帝國酸素株式会社 設立。
1981年 - テイサン株式会社に社名変更
1998年 - 日本エア・リキード株式会社に社名変更

この「帝国酸素」に在籍していたのは、おそらくお父上か、その世代の方と思われる。
戦前には創業当時は多くの会社の名前に「帝国」が付けられていた。
戦後大分時を経てから徐々に社名は変更されていった。
その幾つかの例として……。


●帝国人造絹絲株式会社 → 帝人株式会社 →  ロゴマークをテイジンからTEIJINに変更。

●帝國蓄音機商会 →  テイチク

●帝国興信社 → 帝国興信所 → 帝国データーバンク (ここだけは帝国を外さないのね。笑。)


「帝国」という言葉の存在は、歴史を語るものだ。それもかなりの重さで。
「大日本帝国」……なんて恥ずかしい名前だ。

お父上あるいはその世代の方の書かれた履歴書であろうか?
あるいは、自らの履歴書に、お父上のかつて所属していた会社と、その最終身分を書いたのかもしれない。
「書く」ではなく「残す」のである。時の流れとともに「帝国」を脱いだ時代へと移行してゆく時代に……。


国家よりワタクシ大事さくらんぼ   (摂津幸彦)

草取りと草刈り

2013-06-19 00:27:13 | Haiku



「草取り」とは、庭などの雑草を取ること。これは根こそぎ取る。

「草刈り」とは、農家などが家畜の飼料や耕地の肥料にするために里山などで草を刈ること。根こそぎ取らない。
この草を干して牛馬の飼料にする。雑草は花を持つころが収量も多く養分に富むので、花期の頃に草刈りをして干草にする。
耕地の肥料にするには、刈りとった草を堆肥にする。

草刈り・ウィキペディア


十指みな使いきったる草刈女   (長谷川栄子)

雨あしをともに刈りこむ草刈女   (庄中健吉)

雨のあくる日の柔らかな草をひいて居る   (尾崎放哉)


「草刈女」は、庭の草取りをする女性のことではない。
農業の大切な部分を担う仕事をしている。その名の通り女性が担う。今は機械がやるのかしら?

上に伸びてゆく草、下降線を描く雨足……その2つの線を草刈女は同時に刈るのですね。

そして「草をひく」のは、雑草を抜いていることであって「草取り」の意味になる。

巣箱まだ生きてゐるなり倒れ榛

2013-06-15 16:27:58 | Haiku
  
《ハンノキの今の季節の姿》


《ハンノキの花は、雌雄同株、雌雄異花で、若葉が出る前(2~3月)に咲きます。長いのが雄花、丸いのが雌花》

はんの木のそれでも花のつもりかな    一茶     (なるほど)


我が散歩道には、たくさんのハンノキがあるので、歩くたびに下記の句を思いだして、
気になって仕方がなかったので、自己流解釈を試みます。


巣箱まだ生きてゐるなり倒れ榛     中戸川朝人  『巨樹巡礼・2013年』所収


【榛】は「はり」と読んで、「ハンノキ」の古名ということになる。
「はしばみ」と読めば「ハシバミ」 ということになる。
5・7・5の「5」に字余りなくおさめるには「はり」が選択されるだろう。

だから「タオレハン」という読み方はあり得ない。
「タオレハリ」と読むのではないだろうか?

ハンノキは、幹は真っすぐに伸びてゆくし、根はしっかりとしていて水辺や畦に立っていることができる。
水田の畔に、稲のはざ掛け用に植えられることもあるし、川岸に護岸用に植えられることもある。
荒廃地や山の復旧対策のために植えられることもある。つまり根が強靭だということ。

その木が倒れるということは余程の状況があったはず。
だから「巣箱まだ生きてゐるなり」ということが格別のことになるのではないか?

湖北では、ハンノキを畔に植える風景が少なくなったという。
農業の機械化が村の風景を変えてゆくのだろう。
かつては、稲のはざ掛け用に、あるいは昼食の時間には、その木陰に人々が集うこともあったようだ。

消えたハンノキの里・湖北の原風景

さらにハンノキの豊かな話は尽きない。
ケルトの守護樹にもハンノキは「4月の樹」としてえらばれている。

ケルトの守護樹