《鳴門》(1959年・70歳)
21日は初夏を思わせるような1日だった。あまりの陽気についつい予定を繰り上げて、「奥村土牛・1889-1990」の絵画を山種美術館に観に行きました。
雅号の「土牛」は、出版社を営んでいた父親が、息子の第一画集を出版する時に決まったとされる。唐代の僧「寒山」の詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられました。その父親もかつては画家を目指したこともありました。「土牛」は体の弱い子供時代ではあったものの、101歳まで長生きをされて、死ぬまで絵筆を放さなかったとのこと。
刷毛で胡粉(ごふん)などを100回~200回と塗り重ねをして、それにもかかわらず繊細で静謐な色調の作品となっています。それに加えて画家自身の精神の清清しい優しさまでも・・・。
「私はこれから死ぬまで、初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。むずかしいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。」
(85歳のときの自著『牛のあゆみ』)より。
土牛は、1889(明治22)年2月、東京・京橋に生まれ、16歳で梶田半古塾に入門。院展を活動の中心とし、横山大観、小林古径、速水御舟などから多くを学びながら、土牛自身は「東洋画と西洋画」、「写実と印象」、「線と面」、「色彩と墨」、「立体と平面」と相反するものの間で、それらが融合した独自の絵画を描きました。土牛は遅咲きの画家ではありましたが、その雅号の由来通りに描き続けて101歳で天寿をまっとうしました。
《醍醐》(1972年・83歳)
《門》 (1967年・78歳)
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個人的な気づきですが、彼の描いた「牛」や「鹿」などの動物画に共通していたことは、すべて「母と子」でした。乳を飲む子、母の乳房などに優しい視線を感じました。
「醍醐」はこんな色調だったのですね。早速置き換えさせて頂きました。
有難う御座いました・・・m(_ _)m
これはカタログをスキャンしてから、美術館での記憶を呼び出しながら、微調整しました。本物の色調を完璧に出すのは難しいですね。