← 太い茶色の線は、旧街道
近年、旧水原町の水原城(館)の城主「水原常陸介親憲」が脚光を浴びています。阿賀野市に合併前の南部郷(水原町・安田町・京ヶ瀬村・笹神村)では、水原町の住民数が一番多く、又、水原代官所があったので、水原常陸介親憲が阿賀野市で一番偉い城主と思っている人が多いでしょう。しかし、この水原常陸介親憲がいた時代・戦国時代は、南部郷(阿賀野市)で一番偉かった城主は、笹神村笹岡にあった笹岡城の城主です。詳しくは下記の本をお読みください。
← 平成5年に笹神村教育委員会が発行した「笹神村郷土史 第20集」
この時代、瓢湖は まだありませんでした。荒地だったようです。水原城(館)は、水原代官所の場所にありました。この場所に住む水原家や水原常陸介親憲は、笹岡城に用事で行ったでしょう。又、天正9年(1581年)新発田市の新発田重家は、お館の乱後の恩賞を不満として、公然と上杉景勝に反旗を翻しました。新発田重家を攻めるため笹岡城を重視した。水原家も参戦し、笹岡城~月岡温泉(この当時は月岡温泉無し)~国道290号を通り、新発田市の法正橋での激戦で水原城主は討死した。 この後、大関親憲が上杉景勝の命令で水原城主となります。
死亡した水原城主は笹岡城へ行く時、水原八幡宮前の道を通って行った。春日山から来た上杉景勝も水原城に立ち寄り、次に笹岡城に行った。当然、上杉景勝の一行も水原八幡宮前の道を通って行った。戦いの前なので、もしかしたら水原八幡宮に戦勝祈願のための参拝をして行ったかもしれない。 水原八幡宮の神様は、戦いに行き死亡した水原城主や指揮しに来た上杉景勝を見ていたはずです。後から来た水原常陸介親憲も見ていた。
水原常陸介親憲の肖像。祭りの時の行列とレプリカの親憲の兜
上の写真、左側に「水原八幡宮」。この前面の道路を上杉景勝や水原常陸介親憲が通っています。正しく言うと道路の左側約半分くらい。右側は、道路拡張されています。道路の左側に立ち、上杉景勝軍などの行列を想像するのも良いのでは。 次回に続きます。