左図 赤い矢印の先「水原八幡宮」 緑色の矢印の先「大雲寺」 青い丸印は瓢湖(最初に造成した時は中央に土手があり、二つに分かれていました)
最初に創建されたのが水原八幡宮。その次に水原八幡宮の隣に創建されたのが曹洞宗祥瑞山大雲寺。
1598年 上杉景勝は、会津120万石に移封され、水原城主・水原常陸介親憲は随行して水原の地を去る。
水原親憲が去った20年後、水原八幡宮の隣に1618年4月8日 大雲寺を創建。住職は「開山超岸元悦禅師」、俗名は小林茂介信治と称す。越後少将松平忠輝公の重臣なり、処々の戦場に勲功あり1609年8月14日附信州川中島の地に220石を賜る、右御墨付当寺に蔵せり。 御墨付 越後少将忠輝公御書(大雲寺文書)と、「郷土史 外城物語」に載っています。 大雲寺の最初の住職は220石の侍でした。220石賜った8年後に創建した大雲寺の住職なりました。
大雲寺の創建8年後の1626年に外城大堤(瓢湖)の水溜堀立工事が始まりました。水原親憲が会津へ去った後、溝口秀勝が新発田に入封し下越一帯を支配した。この頃の水原付近は大部分が未墾の原野だった(水原親憲は、田の開墾には熱心でなかったようです)。開墾が進むにしたがって用水が不足。そこで寛永3年(1626年)二代 溝口宣直が水原八幡宮道路向かいの荒地に縄引きして、内側の土を掘り上げて用水溜池を築いた。この工事は1639年に竣工しました。 今 私たちが目にする瓢湖付近の景色になりました。
瓢湖が完成したころの風景? 当時、桜は無かったと思います。
瓢湖が完成して45年後の1684年に、水原城が廃城になりました。そして この地約7町5反歩が「外城村」になりました。
廃城62年後の1746年 水原城跡に水原代官所を設置して、幕府領になりました。
次回に続きます。