2020年5月30日撮影。阿賀野市村杉温泉 共同浴場の駐車場隣にある「薬師堂」
薬師堂の入り口の額です
薬師堂(1335年建立)の由来文です
以下は、2016年2月15日投稿の記事です。
2016年2月15日 阿賀野市 村杉温泉の薬師堂。 写真右側の石柱に「薬師堂 華報寺」とあります。管理者は出湯温泉地内にある華報寺のようです。
薬師堂近くにある「村杉ラジウム温泉の源泉水槽」。 附近に「足湯」もあります。
薬師堂、雪が積もっていると普段より厳かに見えます。
(上)写真の奥に薬師堂。画面中央に石階段。階段の左側に現在の足湯の建物が建っています。
階段の右に水汲み場。現在は石階段の奥に駐車場があり、石階段は撤去され舗装された車の通路になっています。この写真、明治時代と考えます。
2020年5月16日追記
上の写真は、大正時代初期のもの。 薬師堂の境内より天然ガスと共にラジウム鉱泉が湧き出した。この鉱泉は温度が低いため加熱して共同浴場に使われている。
明治後期の共同浴場。画面左は道路。
上の写真は大正時代初期のもの。 村杉温泉の共同浴場。 ラジウム温泉として注目を集めていたころの写真。
二之湯の看板有り。上客は一之湯、並客は二之湯と区別され、入浴料金も差があった。 この場所は現在の共同浴場の位置。斜め横から撮影しているので、現在の共同浴場より大きく見えます。3階建にみえますが、実際は高い天井の平家建だったそうです。この木造の共同浴場は、温泉の湯気のため建物が傷み、30年くらいで建替えていたそうです。「2020年9月5日、村杉温泉生まれ村杉温泉育ちの90歳の人から聞きました」
上の写真は大正3年(1914年)撮影。「村杉温泉ラジウム鉱泉認定」
温泉水の鑑定を新潟医学専門学校(新潟大学)に依頼し、その結果、ラジウム鉱が多量に含まれていることが判明。その喜びの記念写真。記念写真の背景、上側に薬師堂が。記念写真の最前列に、顔に髭をはやしている人が数人います。地位の高い人でしょうか?。この時代、偉い人は髭をはやしていたのでしょう。 下は、2020年8月15日 午後4時半に撮影。雨天のため、薄暗い曇り空でした。
この写真は、大正初期の村杉温泉内の道路。道路の両側に杉並木が。 この杉並木を伐採し跡地を道路に拡張しました。
(上)村杉温泉 大正時代の村杉温泉の入り口付近 現在と風景が違います。
下の図は、五頭温泉郷旅館協同組合の「村杉温泉を歩こう」のパンフレットから。薬師堂の位置がわかります。
(下)2021年12月25日撮影した薬師堂。下記2~3枚目の写真にオーブが写っています。
(上)右側の赤矢印先にオーブが写っています。(下)は、矢印先の拡大写真
← 写真の上部にオーブが写っています。
村杉温泉内にある須賀神社。2020年5月30日撮影。下記の過去の投稿写真を見てもらうとわかるのですが、境内にあった樹木の多くが伐採されています。神社の雰囲気が変わりました。集落の人達が伐採したそうです。
須賀神社の入り口にある額
(上)は、須賀神社の拝殿の天井絵。「龍」が描かれています。
(上)は須賀神社の拝殿内の額。村杉温泉の歴史などが書かれています。
左は、境内に建つ猿田彦大神の石碑。
以下、2019年3月に投稿した記事です。
2019年3月3日 阿賀野市村杉温泉内にある須賀神社・天王宮。旅館・環翠楼さんの道路向かい奥に、あります。
神社の入り口の彫り物
上の写真の拡大。 「龍」の彫り物が、素晴らしい。
2020年5月17日追記 入口にある須賀神社の説明看板 須賀神社の創建は不詳。建武2年(1335年)与助という人物がこの地に社殿を建てました。
明治23年(1890年)に境内社である神明社、大正2年(1913年)に大山祗神社を合祀し大正6年(1917年)に須賀神社に改称。祭神は須佐之男命。
須賀神社は明治27年に現在の地に移転改築(それまでは字城山にあった)。大正6年1月10日に社号を「須賀神社」に改称。この写真は大正時代の初めころに撮影。須賀神社を移転改築し社号を改称したころは、村杉温泉は このような風景だったのでしょう。村杉温泉の道路は現在より狭く、両脇に杉林が。この杉林を切り倒し、道路を拡張しました。
(上)この写真も大正時代のもので、村杉温泉入口付近を撮影。現在とは違う風景です。
下の写真は須賀神社への入り口。赤い矢印方向に進みます。
入口の鳥居には、なぜか「天王宮」の看板が・・・。 下は、2020年8月15日撮影。須賀神社。
下の図は、五頭温泉郷旅館協同組合の「村杉温泉を歩こう」のパンフレットから。須賀神社の位置がわかります。
(下)は2021年12月25日に撮影。須賀神社の中央にオーブが写っています。小雪の舞う日でした。
← 拡大した「オーブ」の写真。オーブが写りました。
2020年2月 阿賀野市「やまもく」で近藤一意さんの木版画を見つけ、購入しました。21年前に購入しようか迷った作品です。「中古」で安くなったので購入。以前買った人が亡くなり、相続人が売ったのかな・・と考えます。 私が近藤一意さんの版画を実際に見たのは、下記の「ふるさと新潟を刻む 近藤一意 木版画展」で、1999年9月です。 会場は新潟市中央区古町の考古堂ギャラリー。
近藤一意さんは、大正5年(1916年)9月9日 新潟市北区濁川(旧北蒲原郡濁川村)で生まれました。1936年に新潟師範学校を卒業され県内の小中学校に勤務。学校の先生でした。阿賀野市 旧水原町にも住んだことがあり、中央町2丁目の天朝山公園でよく遊ばれたそうです。個展会場で御本人に会い話をさせて頂きました。近藤さんは82才か83才でしたが、若い私にも丁寧に話相手になってくれました。自分の版画は万代橋に降りしきる雪の絵が多いと言っていました。普通、木版画の色は水彩絵の具で刷るけれど、自分の木版画は油絵の具で刷る。油絵の具は乾くのに時間がかかるので、大量に版画が刷れない・・と話されていました。私は小遣いが少なく、買うか悩み、6万円くらいの雪の降る万代橋の絵を買うことにしました。欲しい版画が売却済だったので追加で刷って欲しいと言ったのですが、前記の理由で刷るのに時間がかかるのと高齢なので展示しているので終了とのこと。次回、個展を開いたら購入して欲しいと話されました。 一番上に投稿した版画は旧新潟市郷土資料館。こちらも売却済でした。今回、購入できて満足です。少し切り絵の雰囲気がありますが、油絵の具のせいでハッキリとした色のせいです。
後日、近藤一意さんから個展にきてくれた令状ハガキが届きました。この個展の1~2年後に亡くなられたと記憶しています。亡くなられたので版画は購入できませんでした。令状には住所も彫られていたのですが、近藤さんの相続人が今も住んでいるか知らず、書いて迷惑がかかるといけないので、住所部分を消して投稿しました。
「近藤一意」でネット検索すると詳しい記述が無いので、個展の時に買った絵葉書を作品集として投稿します。阿賀野市に住んでいた縁で紹介させて頂きます。
上左「聖堂」 上右「みそらの花」 夜の万代橋、空には星の花がまたたく←文は、葉書に印刷されています。
「聖堂」は、近藤一意さんの晩年の作品のようです。
上左「おしゃれな街角」 ガス灯の点るころ、NEXT21の建物が夕日に染まる
上右「聖夜」 清しこの夜、星は光りーー、雪の中のカトリック教会
上「坂の上から」 異人池のあった西大畑町ドッペリ坂の上からの新潟市内の眺望は絶佳。カトリック教会の向こうにはNEXT21のモダンな尖塔が光っている
上「雪の日の万代橋」 新潟のシンボル、万代橋が雪の中に幻想的に浮かぶ
※他県から新潟市に転勤で住んでいた人が帰る時、新潟の思い出に「雪の降る万代橋の絵」を買っていく・・と、近藤さんが話されていました。
上「新潟開港記念」 雪の日の郷土資料館、明治時代 五港の一つとして開港し、黒船が訪れた日々が想われる
※6月13日追記 近藤一意さんについては、「にいがた文明開化ハイカラ館」さんのブログ、(変わらぬ風景⑩近藤一意さんの雪景色)でも、紹介されています。
2022年7月12日追記 ポストカード、見つけました。
平服姿の二宮尊徳の肖像画。 表装掛け軸で、送料共で上製5円。並製で2円50銭。戦時中の製品のようです。
この絵は、絵葉書。掛け軸販売の案内ハガキのようです。
あずき入り抹茶味の椿餅 5本入り 550円 阿賀野市中央町2「水吉菓子店」の「元祖 翁椿餅」
白い色の椿餅も売っていました。上の椿餅、抹茶味ですが、深緑色で小豆入りなので「笹団子」を思い出しました。
春はピンク色の椿餅も売っていた記憶があります。 美味でした。
10本入りは竹の皮で包まれています。
以下は、2020年3月7日に投稿した記事です。
阿賀野市中央町2 最上屋さんの 「椿餅 つばきもち」 美味です。
今日2020年6月7日(日)、阿賀野市村岡集落のじゅんさい採りを撮影しました。村岡集落は、毎年 第一日曜日にじゅんさい採りをされるようです。 午前8時半過ぎに、自治会長のあいさつ後、集落の女性9人が5艘の筏(いかだ)に乗りジュンサイ採りを開始したそうです。
ジュンサイ池は、農業用水のため池として明治時代に築造。約180m(奥行)×60m)(幅)
← じゅんさいの葉
ジュンサイ採りをしているのは、村岡集落の女性。年配者が多く若い女性はいません。ジュンサイ採りをしている女性の人数より、写真撮影している人数が多いです。年配の男性が多いのですが、年配の女性も数人いました。新聞社の記者(?)の人もいたようです。 このジュンサイ採り、絵に変化をつけるのが難しいです。
左図 赤い矢印の先「水原八幡宮」 緑色の矢印の先「大雲寺」 青い丸印は瓢湖(最初に造成した時は中央に土手があり、二つに分かれていました)
最初に創建されたのが水原八幡宮。その次に水原八幡宮の隣に創建されたのが曹洞宗祥瑞山大雲寺。
1598年 上杉景勝は、会津120万石に移封され、水原城主・水原常陸介親憲は随行して水原の地を去る。
水原親憲が去った20年後、水原八幡宮の隣に1618年4月8日 大雲寺を創建。住職は「開山超岸元悦禅師」、俗名は小林茂介信治と称す。越後少将松平忠輝公の重臣なり、処々の戦場に勲功あり1609年8月14日附信州川中島の地に220石を賜る、右御墨付当寺に蔵せり。 御墨付 越後少将忠輝公御書(大雲寺文書)と、「郷土史 外城物語」に載っています。 大雲寺の最初の住職は220石の侍でした。220石賜った8年後に創建した大雲寺の住職なりました。
大雲寺の創建8年後の1626年に外城大堤(瓢湖)の水溜堀立工事が始まりました。水原親憲が会津へ去った後、溝口秀勝が新発田に入封し下越一帯を支配した。この頃の水原付近は大部分が未墾の原野だった(水原親憲は、田の開墾には熱心でなかったようです)。開墾が進むにしたがって用水が不足。そこで寛永3年(1626年)二代 溝口宣直が水原八幡宮道路向かいの荒地に縄引きして、内側の土を掘り上げて用水溜池を築いた。この工事は1639年に竣工しました。 今 私たちが目にする瓢湖付近の景色になりました。
瓢湖が完成したころの風景? 当時、桜は無かったと思います。
瓢湖が完成して45年後の1684年に、水原城が廃城になりました。そして この地約7町5反歩が「外城村」になりました。
廃城62年後の1746年 水原城跡に水原代官所を設置して、幕府領になりました。
次回に続きます。
自宅の蔵からでてきた 旧水原町中央町1丁目、第四銀行水原支店の道路向かいの小路、60m?先にあった「第一デパート」の包装紙です。今 思うと、あの店はデパートでなく小規模のスーパーですね。画期的だったのは、店に入って買わなくても出てこれるのが、人気だったようです。あの時代、個人商店に入ると何か買わないといけない雰囲気でした。それが商品の陳列棚だけ見て出てこれるのですから。この販売方法が「デパート」と似ていたから「第一デパート」と名付けたのでしょうか。
疑問に思うのは、電話番号。98-694とあります。62-〇〇〇〇でありません。いつの時代の電話番号? この包装紙、いつの時代のもの? 水劇通りと住所が書かれていますが、あの通りに劇場や映画館があったのでしょうか?
2019年9月26日、伊勢神宮内宮へ。
上の図、右上に朱色の矢印有り。矢印の先にオーブが写りました。下の写真です。
上の写真、五十鈴川の御手洗場で撮影。小さいですが朱色の矢印の先にオーブが。 下は矢印部分の拡大写真です。
矢印の先の白い丸がオーブです。
水原城(館)「後に水原代官所敷地」から太陽の昇る方向に、旦飯野神社(応神天皇を祀る)が。同じ方向に水原八幡宮(応神天皇を祀る)が。
上の左側の拡大図
1枚目の図 右側の拡大図
阿賀野市宮下にある旦飯野神社は、応神天皇を祀っている。水原地区の神明宮は天照大御神を祀っている。水原八幡宮は応神天皇を祀っている。一番古いのが旦飯野神社。2番目は水原の神明宮。この神明宮は水原村民が伊勢神宮内宮を勧請し991年に神社を創設。社殿の方向を東北「太陽の昇方向」にとりて春秋祭祀を行った(水原町編年史から)。神明宮のあとに建立されたのが水原八幡宮。水原八幡宮の正確な建立年は不明。この3神社を並べると上の図のようになる。
神明宮は水原村民が創建したので991年建立したと記録がある。水原八幡宮には正確な建立日の記録が無い。水原町編年史によると1259年に水原八幡宮再建とある。「郷土史 外城物語 2011年発行」によれば1793年に社殿建替の記録から水原八幡宮の創建は600年以前のものと認む、とある。ここで考えてみる。旦飯野神社の境内に神主が住んでいる。水原八幡宮の境内にも神主が住んでいる。境内の敷地面積は192坪(実際はもっと多い坪数でしょう)。所有者は「官有地第一種」とある(現在の登記名義人は未確認)。神明宮の現在の所有者は「阿賀野市中央町1丁目7番10号 神明宮」と登記されている。水原八幡宮の境内地が官有地第一種と言うことは、水原八幡宮を建立したのは地主などの集落の人達でなく、役所の可能性があると考えます。この時代の役所と言えば「白河庄」。荘園公領制が確立したのが1110年。もし、白河庄という役所が建立したのなら、役所である白河庄が無くなっているので、建立日の記録帳も無い・・でしょう。水原八幡宮の神主が創建当時からの神主でなければ創建日の記録がないのも理解できます。※「官有地第一種」になったのは、江戸時代~明治時代になってからの可能性もあります」
現在の水原八幡宮では、創建の日付が不明。もしかしたら、白河庄が創建した・・と考えると、瓢湖の道路向かいにある町内の神社でなく、「夢」を感じます。違うかもしれないけれど、正しいかもしれません。どなたか研究されませんか?
次回に続きます。