エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

palpitationの楽しさ

2014-06-01 08:09:28 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
遊びが大人になると生まれる子ども:日常生活の儀式化 パリコレ

 現状肯定にも、2つの側面があること、伝統の場でも、楽しい感じのある想像力と直感によって、新たに精神的連帯の場に変換することに現状肯定が役立つこともあれば、現状肯定に開き直って、現...
 

 NHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」。「大地主の倅との結婚」という、当時としては、女性の最高の「成功物語」(写真のような「旧岩崎久彌邸」ほどではないにしても、立派な家、贅沢な食事や服は保証されたでしょうに)であったはずなのに、そのような既存の「成功物語」に引きずられることがありません。何故なんでしょうか?

 花子は「palpitation ときめきがある人が見つかったら、その人と結婚したい」と言います。自分の心の動き、自分の「声なき声」に応えて、聴き従った、と言えませんか? みなさんも、経験ありますでしょう、たとえ、「毎回そうしている」というわけではないにしても。

 花子の特色の一つは「想像のツバサを広げる」ことですね。その空想のおかげで、屋根から落ちたり、夜に子どもと図書館に出かけたり、で、「問題」をいろいろおこします。教員をしている小学校の校長先生や「生真面目な先輩教師」に言わせれば、「問題教師」そのものです。

 他方、夜に図書館に一緒に行った子どもの「先生が作ったお話の続きを聴かせてくりょ」という声に従って、それに応えて書いた物語「みみずの女王」が懸賞童話に当選。「花子とアン」の物語が展開していきます。

 「真面目な先輩教師」と花子。一方は「真面目」、「無難」、「堅さ」、「難さ」でしょうか。他方は「落第教師」、「学校の先生に向いてない」と言われてしまいます。一方は仕事はするのでしょうけれども、面白みがない「生真面目」です。かたや、常識はずれですが、「楽しい」。花子のクラスの子どもたちも、それをチャーンと感じているのです。

 「真面目」を否定しているのではありません。本当に「楽しい」ときには、新しい何かが生まれてくると同時に、一定の秩序ができます。その秩序は外から強制された秩序とは全く違いますよ。新しい何かが生まれますから、既存のものや現状が否定されます。ところが、同時にそこには一定の秩序があるのです。それは遊びの中に、楽しさがあるのに、同時に、秩序やルールがあるのと全く同じです。

 人がイキイキ、ピチピチできるのは、この種の ”遊び” があるときだけ、ですよ。

 

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自分のことはいったん脇に置いとくと、見えてくるもの

2014-06-01 05:18:14 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 他者の「声なき声」に応えるためには、日ごろから自分自身の「声なき声」である、静かな小さい声に聴き従っていることが必要です。今日はp27 L4から。

 

 

 

 

 

 「一人の人を個として認めること」は、「相手の人を良く見て忘れずにいること」なしには、ありえません。「弱い立場の人を労わること」と「弱い立場の人の声にならない声に応えること」は、「弱い立場のを良く見て忘れないこと」がなければ、その方向性を見失ってしまいます。「弱い立場の人を良く見て忘れないこと」は、相手に対する配慮がなければ、空っぽです。「弱い立場の人を良く見て忘れないこと」は、(バームクーヘンのように)重層的にできてます。≪真の関係≫における「弱い立場の人を良く見て忘れないこと」は、周辺にあるものではなく、核心的なことです。「弱い立場の人を良く見て忘れない」でいることを実際に出来るのは、私が自分自身のことはいったん脇に置いといて、その相手を『その人ならでは』の存在と見るときだけです。たとえば、一人の人が腹を立てて、それを表に出さずにいるとします。その人が怒っていることに私が気付いたとしても、それ以上にその相手のことが分かる場合が実際ありますね。その時、私はその相手の人が不安を感じたり、心配になったり、寂しいと感じたり、自分が悪かったと感じたりしていると分かるかもしれませんね。こうして、その相手の人の怒りは、「もっと深い気持ちがホントはあるんですよ」ということを示しているだけだ、と分かって、その相手の人が不安を抱き、恥じ入っていると分かるんです。つまり、その人は、怒っている人ではなくって、重荷を負って苦戦している人なのですね。

 

 

 

 

 

 今日のフロムも、具体的な場面が眼に浮かびますね。フロムが臨床をどの程度していたのかは分かりません。しかし、今日の所などを読めば、日常生活を、まるで詩人か、あるいは、臨床心理士のような眼で見つめていたことだけは、ハッキリわかりますよ。

 怒っている子ども、お友達のことを打つ子どもを前にするとき、普通私どもはどうしますか? 叱りつけるか、罰(×)を与えるのが関の山でしょう。日本の学校でしたら、かならず、「生徒指導」の対象です。その子どもに、フロムがしたように、不安や心配、一人ぼっちの寂しさや自分を責めている気持ちを察する人がどれだけいるでしょうか? しかし、心理臨床を生業とする私どもは、そこが腕の見せ所。しかし、うまくいく時ばかりではありません。分からないことも多いのが、実際です。

 それでも、子どもが一見「悪く」見えるときにも、そこに「何か良いもの」、「何か大事なもの」があるはずだ、と、『その子ならでは』を探すことだけは、できますね。今回フロムが指摘しているのは、いつでも、その正解をすぐに見つけることではなくって、“ 子どもを、そのような「良く見る」視点を持って、結論をすぐには出さずに待つ態度 ” の大切さを指摘している、と考えて大過ないでしょう。

 

 

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