人型の人形とロバートの「物語」
エリクソンは実に不思議なことを、まるで小説を書くかのように伏線として、次々に言ってくれます。 今日は、ロバートが人の人形を並べるシーンとロバートの「物語」です。 ここで、ロバート...
教育は、以前の教育基本法によれば、「人格の完成」こそが教育の目的です。教育基本法はたとえ時の権力に都合よく変えられたとしても、この教育の目的に、変りはありません。
今の日本の教育はどうなんでしょう? 現状は?日本の教育は、授業はもちろん、生徒指導やPTA対応、教育委員会をはじめ、各種団体の依頼〈虫歯予防週間のポスター制作、消防署のポスター制作、警察から防犯標語の作成、〇〇の作文など〉に応える授業など、時間に追われる職業生活を余儀なくされています。忙しいと、自分が日々していることが、目的にどれほど叶っていることかをという問いを問うことを忘れてしまいがちです。人格の完成を目指す授業に、かくいう私はなかなか出会えませんね。金森俊朗さんのような授業を普通にやってもらいたいと、願わずにはいられません。
生徒指導にしても、「?」を感じることが実に多い。何か外側からの規範を子どもに押し付けることが、「生徒指導」の名の下で行われていることが実に多い。加えて、ゆとりのない教員のイライラや怒りまで、子どもにぶつけるとなると、それはもう(教育)の名に値しないことは火を見るよりも明らかですが、当の「教員」はそれさえも気づかない、という始末です。一方通行の授業になれた教育は、生徒指導も一方通行なのですね。やり取りのある授業と、やり取りのある「生徒指導」をやってもらいたいと、願わずにはいられませんよ。
先日、TEDで、NHKの「スーパーブレセンテーション」で、ケン・ロビンソンが、「教育は根本的に変わらなければならない」と主張していて、「全くその通りだ」と強烈に感じたものでした。そのために必要なことは、まず〈当たり前と思っていること〉を疑うこと。これは人間が一番苦手とすることだそうです。なぜなら〈当たり前のこと〉は、空気のような存在で、それを意識することが難しいからです。〈当たり前と思っていること〉は、無意識の海に落っこちているので、意識の大陸にはなかなか登ってこないわけですね。
この〈当たり前のことを疑う〉上で、有力なのが、子どもたちの「問題行動」を常識的に対処するのではなくて、そこに「何か良い意味はないのか?」と発見的に関わることがあります。みなさん、子どもと発見的に関わってみましょうよ! するとそこに子どもの「最深欲求」がみつかりますよ。人格もその最深欲求という名の願いを自づから現していく、その延長線上にあるはずです。