エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #1人豊か #習慣は1つ

2018-09-24 05:30:06 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの





マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。

人間

というものは

面白い

もんで

ある

ひとつの習慣

を毎日

ずっと

繰り返して

いるんですね。
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#仕草や表情 #自然に流れない #発達トラウマ障害

2018-09-24 04:51:28 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの




 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.26,第2パラグラフから。その前もご一緒に。



夜明け前のトラウマを負わされた人たち

 私は夜や週末に,病棟で過ごすことが多かったんですが,そのおかげで,医者が短い病棟巡回では見逃してしまうことに触れることができました。患者さんたちが寝ていないときに,きつく締め付けたバスローブを着て,うろつき回って,暗いナース・ステーションに話に来ることが多かったんです。夜の静けさのおかげで,患者さんたちは話しやすかったようです。ぶたれたこと,暴力を受けたこと,性的に弄ばれたことを話してくれましたが,それが,その患者さんの親だったり,親戚だったり,クラスの友達だったり,ご近所の人だったり,しました。夜ベッドの横になっていると,助けてくれる人もいないし,オッカナイままにされて,お父さんや男友達にお母さんはぶたれるのが聞こえるし,両親が,お互いに恐ろしい脅し文句を言い合っているのが聞こえるし,家具が壊れるのが聞こえます。父親のことを話す人もいました。その父親は飲んで帰ってきて,階段を上がったところで足音が聞こえて,父親が入ってくるのを待ち,ベッドから引きずり出されて,ありもしないでっち上げの理由で罰を受けた,というわけです。寝られずに,身動きもできずにベッドの中で横になり,逃げられないことを待った,という女性もたくさんいました。お兄さんやお父さんが入ってきて,性的ないたずらをしたんです,と。

 朝の巡回の間に,若い医者たちは,指導教授たちに自分のケースを報告しましたが,その儀式は,病棟の研修医たちも,黙って参加することが許されていました。若い医者たちは,私が闇夜に伺った話みたいな話に触れることはほとんどありませんでした。しかしながら,後々の研究によれば,真夜中の告白は的を射たものであると確証を与える場合が多かったんです。今は分かっていることですが,精神病の治療を受けている半数以上の人が,暴力を受け,見捨てられ,気持ちを省みてもらえず,子どもの時にレイプされたり,家族内の暴力を目にしている人たちです。しかし,こういった(訳注:発達トラウマの)体験は,医者たちの巡回では,話題に上りませんでした。私がよく驚かされたことは,患者さんたちのいろんな症状を話すときに,感情がこもらないことでしたし,自分が絶望したり,助けがなかったりする原因を理解するよりも,自殺を考えたり,自分を傷つけたりする行動に出ようとすることがあまりにも多いことです。私がショックだったことは,発達トラウマ障害の人たちが,自分ができたことや自分が願っていることに,ほとんど意識を向けていないことでしたね。つまり,自分が大事に思い,大事にし,あるいは,大嫌いな人たち,何が動機で人に関わるのか,どうして発達トラウマ障害の人たちはにっちもさっちもいかなくなるのか,どうすれば心から安心できるのか,すなわち,生活の場での環境との関係に,発達トラウマ障害の人たちは無関心です。

 数年後,若い医者として,臨床の中で医学モデルの特に重症事例と向き合いました。当時私は,カトリックの病院で夜勤のバイトをして,うつ病の電気ショック療法をすることに同意した女性の身体検査をしていました。私自身が知りたがりの移民でしたから,カルテを見て,生活について質問したんです。苦痛の満ちた結婚生活,困難な子育て,中絶に対する後ろめたさを語る人が多かったんです。電気ショック療法をしている女性患者さんたちは,話すたびに,目に見えて,明るくなりましたし,話を聴いた私に対して,感情が溢れるほど,お礼を言ってくださる場合が多かったんです。正直に話して,心が晴れた後に,電気ショック療法をすることに疑問を持つ人もいました。そんな話し合いの後で,私がいつも悲しかったのは,次の朝に電気ショック療法をすれば,私たちが話した記憶がきれいサッパリ消されてしまうことを知っていたからなんです。私はこの場合はすぐにやめました。

 マサチューセッツ州立健康保険センターの病棟での仕事がお休みが何日か取れると,私は医学部のカウントウェイ図書館に行くことが多かったんですが,それは,助けたいと思っている患者さんたちのことをもっとよく知るためでした。ある土曜日,いまだに大切にされる論争をたまたま見つけました。それは,ユーゲン・ブロイラーの1911年の教科書『早期の痴ほう症』でした。ブロイラーの観察に心魅せられる思いがしました。

 

 「統合失調症の人の様々な幻覚の中で,性的な幻覚が一番多いし,最も大切です。ノーマルなセックスとアブノーマルなセックスの歓喜と喜びは,幻覚のある統合失調症の患者さんは経験したものですが,卑猥でおぞましいことを,途方もない空想が呼び起こすことは,もっとよくあることなんです。男親が精液を垂らす。痛みを伴う勃起が刺激されます。女性患者はレイプされ,傷つけられますが,それは最も悪魔なやり方でです…。このような幻覚の象徴的な意味にもかかわらず,統合失調症の患者は,実際の感覚にも反応します。」



 これを読んで,私は不思議に思いました。私どもの患者さんは,幻覚が本当にあるんだろうか? 医者たちは,決まった通りに,患者さんに質問して,その患者さんがいかに混乱しているのかを記録しました。でも,もし,医者の私たちが聞かされている物語が真実ならば,「幻覚と思っていたこと」も,実際に体験していたことのバラバラにされた記憶だったんじゃないの? ということです。様々な幻覚は,病んだ脳が,ただでっち上げたことなのか? 統合失調症の患者は,自分が一度も体験していない体感をでっちあげることができるのか? 創造性と病的な空想の間に,果たしてハッキリとした境界線があるんだろうか? 記憶と想像力の間に,果たしてハッキリとした境界線があるんだろうか? こういった問いに対する答えは,今もありませんが,研究が示すところによれば,子どもの時に大切にされずに来た子ども達は,ハッキリとした身体上の原因がなくても,様々な感覚(たとえば,腹痛)を感じる場合が多いそうです。また,子どものころに大切にされなかった子ども達は,危険を知らせる声や,凶悪犯罪をしたと言って責め立てる声がいろいろと聞こえる場合が多いそうです。

 病棟の患者さんの多くが,暴力や奇妙なことをやったり,自傷をするのは,不満に感じたり,邪魔されたと感じたり,誤解されたと感じた時であるのは,間違いありません。患者さん達が癇癪を起したり,お皿を投げたり,窓ガラスを壊し,カミソリやガラスで自分を傷つけました。そのとき,一つの単純な問い(あなたの髪の毛についたゴミを取らせて)に,激しい怒りと恐怖で反応しているのかもしれない,とは考えませんでしたね。ベテランの看護師さんの指示に従うのが,私のいつものパターンでしたが,その看護師さんは,いつ後退りすればいいのかサインしてくれましたし,それがだめなら,患者さんをいつ押さえつけるのかのサインをくれました。私が驚き警戒した自己満足とは,一人の患者さんと取っ組み合って床に押し倒した後で,看護師さんがやっとのことで注射ができた時の自己満足でしたが,次第に分かったことといえば,プロの医者になる訓練そのものが,オッカナイ,混乱した現実に直面したときに,事態をコントロールするのに役立つことばかりなり,ということでしたね。

 シルヴィアは派手な19歳のボストン大学生で,いつも病棟の隅に一人で座っている子でした。死を恐れ,実際に一言もしゃべらないのですが,ボストン在のマフィアの幹部の女友達だという評判で,不思議な魅力のある子でもありました。1週間以上食事を拒否し手,急に体重が落ちた後,医者は無理にでも食事をさせることにしました。3人かがりで,1人はシルヴィアを横にして,もう1人は,ゴムチューブをのどの突っ込んで,3人目の看護師は,液体栄養剤をお腹に流し込みました。後になって,真夜中の告白で,シルヴィアが恐る恐る,控えめ勝ちに,告白したのは,兄弟やおじさんから,子どものころに性的虐待に遭ったことでした。その時に気づいたことは,「治療」を実際にやると,シルヴィアは,集団でレイプされていると感じるはずだ,ということでした。この経験は,その他の同様な経験とともに,私の学生向けのルールを私が作るときに役立っています。すなわち,友人や子どもに望まないことを1人の患者さんにするならば,そうとは知らずに,患者さんの過去のトラウマを繰り返すことにならないか,よくよく考えなさい,と。
リクリエーションのリーダーとして私は,他のことにも気がつきました。集団としては,患者さんは,極端にぎこちなくて,身体もバラバラだ,ということでした。キャンプに出かけても,テントを張っている私の側に,寄る辺なく立ったままの人がほとんどでした。チャールズ川で船遊びをすれば,船は転覆です。というのも,皆が頑なに風下に集まって,船のバランスを保つ立ち位置に移動しなきゃ,ってことが,分からなかったんです。バレーボールの試合をやれば,病院スタッフの方が,患者さんよりも,はるかに連携プレーが上手なのが、当たり前でした。患者さん達に共通する,もう1つの得色は,1番リラックスした会話でも,堅苦しく感じられたことでした。身振りや表情が自然に流れていかないんです。特に,友達同士で,そうなんですから。この様な観察が,いつも当たりなのがハッキリしたのは,体感セラピストのピーター・レヴィンとパット・オージェンに出逢った後のことでしたね。この2人は後の章で,トラウマが人々の身体にいかに強固に残るのかを,いっぱいお話しする時に,登場します。




 発達トラウマ障害の人は,身体と頭・心とがバラバラですから,表情と仕草が,特徴的に固い。

 いまのニッポン巷に,ごまんと溢れていますからね。
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#醜悪な心の習慣 #醜悪な事件や事故

2018-09-24 03:57:05 | エリクソンの発達臨床心理




 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.107,第2パラグラフの7行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。





 青年期と理想:

 本当の自分と真実



 子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を(自分には値打ちがある,と)体感することができます。しかし,思春期は不安定ですし,子ども時代を卒業しなくてはなりませんし,また,時代も不安定ですから,様々にぶつかり合う自己イメージが生まれてきます。それは,私どもは労働者としての顔があるだけではなくて,パートナーとしての顔,親としての顔,市民としての顔も心の中に備えておかなくてはなりませんし,自分はまるで機械がうまく動くため,効率よく役割を熟す為に犠牲にされている,と感じることもある時代と同じです。私の他の本で何とか申し上げたことを手短に申し上げますと,聖書の神様と一心同体になる道は,子ども等が,子ども時代に終わりに,自分自身にとっての意味と,自分にとって大切な人にとっての意味と感じられることが,やり取りがあってピッタリと一心同体になっているのか,次第です。若者が退行しがちなのは,心の中で遊んでいるあの子どもに触れる中で不動にされるためですし,若者が「不登校に(会社に行かなく)」なりがちなのはも,時の中で力を得るためです。あるいは,包括的な様々な哲学的なヴィジョンを掴み取るため,という場合もあります。包括的な様々な哲学的なヴィジョンが人々を強烈に束ねるのは,生きている実感を肯定するヌミニースの原理,生きている実感を話し言葉にする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理,生きている実感を正しい生き方にする原理を束ねる,非常に分かりやすいけれども,人の気持ちを省みないことが多い答えで,しかも,自分が思い煩っているこをすべてを,他人のせいにする答えでもある場合です。

 ここから,2つの生き方が続きます。かたや,いつも驚きがあり,時として,ショックな場合もある,「歓んで生きる意志から生まれ,歓んで生きる意志を繰り返し育む」「日常生活の礼拝」を,バラバラにする</stron>こともできます。その礼拝がバラバラにすれば,青年はお互いの関係を日々礼拝にするもできませんし,持つ立場の大人からも,待たない子どもからを(少し,あるいは,悪い良心と戦って),自分の世代を区別することも,出来ません。かたや,「日常生活を礼拝にする様々な,天晴な礼拝と,そういう礼拝から生まれる,様々な天晴な習慣」を身に着けることができます。というのも,生きている実感を法則にして,日常生活の礼拝で,天晴れな人生の習慣を身に付けるからこそ,聖書の神様から,とても良いと共に徹底的に肯定されて,不動にされ,神様の恵みにさらに恵まれ,独立していられる人物になれます。この様な人物に青年がなりますと、自分たちの仲間(人間を上下2つに分けるウソから生まれた、上に立つ自分たちの仲間)の求めに,心から応えられますし,仲間内でエリートにもなれます。





 ご承知の通り,今のニッポンは,日常生活の礼拝がバラバラですから,醜悪な心の習慣の人が溢れているので,醜悪な事件や事故が,日常茶飯事になっているのですよ。
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#素晴らしい心眼 = #生きている実感を生きる指針にする = #最深の心の習慣 #躾はその後

2018-09-24 02:39:45 | エリクソンの発達臨床心理


 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。

 Identity and the life cycle  『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.75の,2行目途中からです。 その前も,ご一緒に。





  ≪私≫が生きている実感を法則にすること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すけれども,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと



 スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。

 元気いっぱい

 冒険したい気持ち

 もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。

 あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え

 事故を防ぐ

 赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時

 自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?

 物を落としたり,投げたりすること

 子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる

 噛みつく人間

 寝る時間を良い時間にする

 夜になっても寝ようとしない幼子





 私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志がぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。

 この創造の舞台で,何よりも大事なことは,筋肉が育つことと,「我慢する」と「手放す」という互いによくぶつかり合う行動パターンを,ピッタリと一体とすることに,母子2人が共に従うことができること(できない,と感じるのも,母子2人になります)と,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を自分の法則にして,歓んで生きていく意志を体得するのに,途轍もなく重要だ,ということです。

 精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにする全ての道は,「心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さんが共に育つと,できるだけ自分を空っぽにすると,必ず「心地よく感じる」ご褒美をもらえる体験が必要不可欠な,状況を好転させる働きとなります。素晴らしい立ち姿で立つことができて,筋肉が創造のために整えられると,≪私≫が生きている実感に法則にして心から歓んで生きる意志を実感通りにノビノビと自由に生きる力が育ちますし,≪私≫が生きている実感を零して,捨て去る力も育ちます。しかし,母子の出会いを研究する新たな評価は,母子を固く結びつける様々な絆があることに限りません。実際に,創造する唯一の力,強い影響力のある上等な唯一無二の生命力(である,聖書の神様)は,≪私≫が生きている実感を零して,創造の目的から的まずれにする力も育てますし,≪私≫が生きている実感を実感通りに見守ったり,出して生きたりすることを,代わりばんこにする力も育てます。

 お尻の穴に関する限り,この点では,全ては,文化的状況がお尻の穴を大切にするかどうか次第です。両親が,お尻の穴が出したり引っ込めたりする行動の仕方を大切にしないで,年上の子ども達が,よちよち歩きの子どもを茂みに連れていくのに任せて,お尻のことはキチンとしたいと思う気持ちが,目上の子ども等の真似をしたいと願う気持ちと一致するようにする文化もあります。私ども西洋の市民社会,特に,市民社会のかなりの階層の人たちは,お尻の穴のしつけを,かなり厳格に考えます。まさに機械化の時代によって,機械みたいにしつけ,間違いなく働き,いつもきれいで,時間通りで,しかも,無臭の身体であることが理想である,と見なされるようになっています。それに加えて,大なり小なり,意識的な正しいと思われているのは,赤ちゃんの時に厳格に躾けることは,「時は金なり」とされ,規律正しいこと,時間通りであること,成功することが持て囃される機械化の時代の波に乗ってうまく立ち回れる人種になるためには,絶対に必要なことだ,ということです。これが意味することは,私どもは,厳しく躾け過ぎだ,ということです。つまり,子どもは,躾なければならない動物か,設定し,調子を調整しならない機械みたいに思っています。たほうで,実際に,人間らしい品性は,少しずつしか成長することができません。いずれにせよ,私どもが臨床をしていて分かることは,私たちの時代の精神過敏な人は,「過剰に強迫的な」タイプだ,ということです。「過剰に強迫的な」タイプの人は,下のことだけではなくて,愛情,時間,お金の点も,ケチで,がめつく,細かいもんです。うんちとオシッコのトレーニングもまた,私どもの社会はやらなくてはならないことがたくさんある中で躾をする際に,一番厄介な躾になっています。

 それじゃあ,何で,お尻の穴の問題が,大切で,しかも,困難なのでしょうね?

 お尻の穴,という身体部位は,身体部位の中で,互いにぶつかり合う2つの力の上で,ぶつかり合いから生まれる,私が生きている実感がハッキリと不動にされることに,一番役立ちます。というのも,第一に,お尻の穴は,互いに反対のことを言い合う行動パターンのための身体の部分だからです。互いに反対のことを言い合う行動パターンとは,すなわち,「尻込み・我慢」と「敷居を超え出る」が代わりばんこになるものです。第二に,括約筋は,締め付けると緩めるの2重の意味のある筋肉, 曲げると伸ばすの2重の意味がある筋肉だからです。ですから,この1歳前後の舞台全体が,≪私≫が生きている実感を自分の法則にするための,1つのぶつかり合いになります。というのも,1歳前後の赤ちゃんが,自分の足で立つ準備ができているように,赤ちゃんは,自分の世界を,「私は」と「あなたは」,「私に」と「私のもの」という話し言葉で,正確に描きますから。お母さんであればどなたでも知っていることですが,子どもは1歳前後の舞台では,ビックリするほど素直なのは,自分がすべきことを「望もう」と心に決めた場合です。ところが,1歳前後の赤ちゃんが,すべきことを望むようにするのに頼れるお祈りを見つけられません。お母さんであればどなたでも知っていることは,擦り寄ってくるときには,とても愛らしいのに,大人を押し退けるときには,とても冷たい,ということです。1歳前後の赤ちゃんは,いろんなものを大事に貯め込見がちであると同時に,いろんなものをポイと捨てがちです。いろんなものを独り占めにしたいのに,そのいろんなものを窓から捨てたいのです。ですから,こういった,一見相矛盾する様々な傾向は全て,我慢と出すという決まった行動パターンのもとに含めます。

 母子の間で,あ互いに,相手の行動パターンに自分の行動パターンを合わせあうことを生み出すことが,一番厄介な試練に直面します。神様の命の回転とは逆向きに,あまりにも厳格に,しかも,あまりにも早期に,お母さんが外から赤ちゃんの行動パターンを,コントロールするお母さんの気持ちが,赤ちゃんが自分のお腹や他の働きを,歓んで,自由な選択によって,「一つ一つ」自分でやろうと努力する赤ちゃんの気持ちを奪うことの上に立つ結果になりますと,その赤ちゃんも,写し鏡になった母子2人も,同じ反抗の顔と,同じ満たされない顔をします。自分の身体が言うことを聞きませんし(よく自分のお腹が心配になります),外側にいる人も当てになりませんと,赤ちゃんは,元に戻るか,あるいは,偽りの前進によって,満足し,命が回転するようにせざるを得ません。別の言葉で言えば,その赤ちゃんは,生まれたばかりの時の,最初の口を介したコントロール,すなわち,自分の親指をしゃぶったり,不機嫌になり,とても手がかかるようになったりしますし,,敵になったり,わがままになったりして,ウンチ(後には,汚い言葉)を爆弾として使います。あるいは,赤ちゃんは,生きている実感に従って,誰にも頼らずに何でもできるような恰好をするようになるんですが,実際には,これまで頼りになる人が,いた試しがないんです。

 この舞台では,ですから,人を大切に思う気持ちと人を悪く思う気持ちの割合や,人と力を合わせることとわがまま勝手をすることの割合,それに,自分が生きている実感通りに自由に生きられるのか,それとも,自分が生きている実感を押し殺して生きるのか,の割合を決める分かれ道になります。「≪私≫が生きている実感を大切にしながら,≪私≫が生きている実感が正しいことを確かめる」心の習慣から,≪私≫が生きている実感を人生の法則にすることと,前向きに生きる気持ちが生まれます。筋肉とお尻の穴がうまくできない感じと,自分のことを自分でできない感じと,親が口うるさい感じから,≪私≫が生きている実感を生きられないのが自分のせいなのか親のせいなのか迷う心の習慣と,≪私≫が生きている実感を生きることにいつも恥じて隠す心の習慣が生まれてきます。

 ≪私≫が生きている実感を法則にすることを育てるためには,赤ちゃんの時期に,自分自身と世の中を根源的に信頼する信頼が不動になるように育てられ,確信をもって続けられるようにしなくてはなりません。≪私≫が生きている実感を法則にできるような赤ちゃんは,≪私≫が生きている実感と人様を根源的に信頼する聖書の神様に対する信頼(聖書の神様を信頼する根源的信頼感は,決して失うことのない天国の宝物ですから,最初の舞台の諍いから自由にしてくれます)は,急に強く,いいものが欲しくなっても,なんでも独り占めしたくなっても,頑なに,嫌いな人を押し除けたりしたくなっても,危険にされさることはないでしょう。「辛抱強くて,一つもウソのない真実な約束」が守って下さるおかげで,赤ちゃんは,まだしつけられていない分別が迷ったり,思い煩ったりすることも,ありませんし,必ず神様の命が一巡することを信頼して,めげずに信頼する立場に踏みとどまることもできますし,人に自由をプレゼントすることもできます。しかし,周りの大人たちは,その赤ちゃんが「自分の足で立つ復活」を願うように,赤ちゃんを手助けしなくてはなりません。それは,その赤ちゃんが,いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることがないようにするためです。いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることを,恥,あるいは,2番目の信頼の失敗,と呼びますが,それは,「善悪どちらにも取れる」ことですから,私どもは「迷い,思い煩い」と呼びます。

 「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,子どもっぽい気持ちで,まだ十分に研究されていません。恥は,丸裸にされて,人から見られていることに気付いたことを前提にしています。一言で言えば,自分の行動を意識している,ということです。見られているのに,見られる準備ができていないんです。ですから,私どもは,まだ服もろくすっぽ着ておらず,しかも,お尻丸出しの状態で,寝間着姿で,人から見られる恥ずかしい夢を見るんです。「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,赤ちゃんの時には,自分の顔を埋めようとする気持ちに現れますし,地面に,その場ですぐに,自分の顔を鎮める気持ちに現れます。この「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」になることがある,ということが,何かを教える時に,「恥ずかしい思いをさせて,≪私≫が生きている実感を隠させる(訳注:忖度)」といったやり方で,乱用される場合がとても多いんです。これは,もっぱら,幼稚な大人達がやらかすことです。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせると,後でお話しすることになる,一層破壊的なことが多い,ダメだぁ,という気持ちになります。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせることが破壊的であることは,いくつかの市民社会の中では,様々な工夫を凝らして「面目を保つ」ことと引き換えになっています。子どもに恥をかかせることは,自分はダメな子なんだと実感する,次第に強まる実感を悪用するんです。自分はダメな子なんだという実感は,矛盾しているんですが,その子が立ったり,その子が,大きさや力を人と比べることができるようになったりするにつれて,大きくなります。

 恥をかかせ過ぎますと,結局は,キチンとやりましょうという気にはなりません。むしろ,人が見てないところで,こっそりやればいい,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心させることになります。アメリカの民謡に,一人の殺人犯が,人々の晒し者になって,絞首台の露となった話がありますが,その場にふさわしく,恐れたり,恥じ入ったりする代わりに,見物人たちを咎めだて始めて,終いには,ありとあらゆる罵るような言葉を浴びせかけましてこう言いました「目が潰れちまえ」と。1歳2歳の幼子は,我慢ならないほどに恥をかかされますと,「目が潰れちまえ」と同じような意味で,信頼できない気分になるものです(その気持ちを言葉に出す勇気も言葉もありませんが…)。こんな好ましからざることに触れたのは,子どもでも,大人でも,自分自身,自分の身体,自分が必要な様々なこと,自分がしてほしい様々なことが,ダメで汚らわしいと見なすように押し付けられても,我慢にも1つの限度がある,ということですし,自分のことをダメだと裁く相手が間違ってないことを信頼するのにも,1つの限度がある,ということです。時には,立場が逆転しがちなもんで,他にやり方があることも忘れて,自分を裁く人たちが今ここにいる,っていうことそのものを悪と見なすようになりがちです。日々裁かれて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心したものにチャンスが回ってくるのは,日々裁く者たちがいなくなった時か,日々裁く者たちから離れることができる時です。

 反抗的な子ども,犯罪を犯した青年は,恥をかかされすぎて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心した人が多いんですから,その悪の道にその子らを至らしめた様々な条件をよくよく調べてみるに値しますね。

 繰り返します。筋肉が発達しますと,本来は1つなのに(訳注:ぶつかり合っている)人との関係の2つの仕方,「手放さすに待つ」と「手放す」,を実験する舞台ができます。すべての心の習慣について言えることですが,この根源的な諍いから,結局は,人は敵と見なして(見通して),敵対する心の習慣も生まれてきますし,人は心優しい人と認めて(見通して),心から優しくする心の習慣も生まれてきます。このように,「手放さずに待つ」ことが,破壊的で,しかも,残忍に本心を隠させ,押さえ付けることにもなりますし,心から人を大切にする1つもモデルになりますから,(訳注:結婚式の誓いの言葉のように)「毎日一緒にいます」ということになります。「手放す」ことも,破壊的ないろんな力を,敵討ちみたいに,発揮することにもなりますし,鷹揚に「見逃してやる」ことや「そのままにしておく」ことにもなります。人格形成の視点から申し上げれば,「手放さずに待つ」ことと「手放す」ことの生き方は,良くも悪くもなります。このぶつかり合う2つの生き方の値打ちは,敵対する生き方が,敵や仲間,あるいは,自分自身に向けられるのかどうかにかかっています。

 この最後に名付けた危機は,精神科医に一番よく知られている危機です。自由に生き方を選ぶことを,生きている実感を法則にする中で実現できるように,ゆったりと,上手に手伝ってもらうことができない,あるいは,生まれて1年間の間に,生きている実感とそれを認めないお母さんを信頼する気持ちが弱められますと,そのビクビクして傷つきやすい(訳注:発達トラウマ障害の)子どもは,良いお母さんとそうでないお母さんを区別したい強い気持ちと,お母さんに手で触りたい強い気持ちを,自分に向けるようになることがあります。そのビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,「生きている実感を失う」ようになりますし,「できそこないの良心」が伸びてしまいます。繰り返し遊ぶことで様々なものを試すために,様々なものを手に入れるのではなくて,自分自身が繰り返すことそのものに囚われるようになります。すべての物事が「自分が思った通りに」あるように願うのですが,それには,決まった順番があり,決まったテンポがあります。このように子どもっぽい囚われによって,たとえば,ブラブラすることで,あるいは,様々なやり方にうるさくこだわることによって,その子は,現実に互いに大切にしあうことができないので,様々な場で親や面倒を見る人の上に立つ力を得るようになります。このような中身のない勝利は,お互いに押し付け合う脳の病の,子どもっぽい見本になります。お互いに押し付け合う脳の病が大人の性質に及ぼす影響はどうかといえば,その影響は,すでに指摘した古典的な強迫的な性質になかに観察されます。付け加えなくてはならないのは,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心してやったことを,ゴマカシて逃げ切りたいと願う願いに支配された性格の人です。しかし,ゴマカシで逃げ切りたいという願いは叶いません。ビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,人を避けるようになりますから,その「できそこないの良心」のために,何物もゴマカシて逃げ切ることができませんし,生涯にわたって,いつも,≪私≫が生きている実感を恥じて隠し,いつも身構えていますし,いつも見られることを恐れます。あるいは,ほかに,私どもが「忖度(譲りすぎ)」と呼ぶ仕方で,発達トラウマ障害の子どもらは,生きている実感を法則にすることに逆らうようになります。しかしながら,生きている実感を生きる法則にして実際に歓んで生きる,という事は,おくびにも出しません。





 しかし,障害についていろいろ考えるところから,小児科医の実際に役立つアドヴァイスを伝える見出しを研究することに戻る時です。このいろんな見出しは,次のようになります。すなわち,この1歳2歳の舞台の子どもに忠実であれ,忍耐強くあれ,そうすれば,その子どもも,自分自身に忠実になれますし,忍耐強くなりますよ。その子どもは,生きている実感を法則にできる人間であることに心満たされるようになります。時には,何かをやっても,見つからずに済む,ということもありますけれども。

 それじゃあ,なぜ,この心の中にあり,この生まれながらに備えられている,生きている実感を法則にすることを育むために何をすべきなのか,というを,たとえ,それが分かったとしても,事細かに親たちに伝えないんでしょうか?  その答えは,生きている実感を法則にすることが,人間らしい価値になる時には,この生まれながらに備わっている,生きている実感という繋ぎ目を作り出すやり方,あるいは,それを何とか作り出す方法が,どなたにもわからないからです。私自身の専門分野の精神分析は,物差しに合わない程,あるいは,理に叶わない程,自分はダメだという感覚が過剰になることを特に研究してきましたし,自分はダメだという感覚が過剰になると,子どもが身体とバラバラになるように母親らが見当違いに関ることを研究してきましたが,子ども達にしてはならないことを,少なくても,ハッキリと言葉にしようとしました。しかしながら,こういった言葉は,あいまいな警告から,とても厄介な決まり事を作り出しがちな人の中で,子どもたちの上に立つ様々な禁止事項を次々に作り出すことになりがちです。関わる中で,私どもは,「どんな力」が働くと,子どもが「とても優しいこと」を実現することに「ならない」ことは,少しずつしかわかりませんから。

 この世の人々が確信しているように見えるのは,(その人の立場から見て)子どもを正しい人にするためには,1人の子どもの人生に,恥,迷い,ダメだぁ,おそれを感じる気持ちを,言ってることとやってることが一貫する形で,分からせなくちゃ,ということです。ただ,その子育てのやり方はいろいろです。文化によって,幼いころからやる文化もあれば,遅くからやる文化もありますし,あるいは,知らず知らずのうちにやる文化もあれば,徐々にやる文化もあります。十分な比較ができるまでは,間違った信念をさらに増やすことになりがちですが,それは,心の病を「0にしたい」と願いながら,心の病の条件に見合う確かな要因についてハッキリとは分からないからです。ですから,私ども次のように言っています。はやく離乳させなきゃぁ,と焦らないで。早くしつけをしなきゃぁと,慌てないで。しかし,早すぎる躾,遅すぎる躾とは何か,という判断は,私どもが避けたいと願う心の病になることだけではなくて,私どもが作り出したいと願う様々な価値によっても,違ってきます。あるいは,もっと誠実に申し上げれば,躾の良し悪しの判断は,私どもが信じて従っている勇ましく高尚なる生涯によって決まってくるのです。というのも,私どもがいくらコマゴマとしたことまで気を配ってやったとしても,その子どもが一番敏感に感じ取るのは,私どもが信頼して忠実に従っている生き方,心から自分と人を大切にして,人と共に仲良く働き,不動で筋が通った人格を私どもに培わせている存在(訳注:聖書の神様,あるいは,善き良心),また,自分と人を心から激しく嫌って,何かにつけて心配し,人をわけ隔てする人物に仕立てあげる存在(訳注:悪い良心),なんですから。

 もちろん,エピジェネシスの視点,すなわち,≪私≫が生きている実感を不動にする,聖書の神様が天上から,創造の初めに予定した視点から見て,避けなくてはならないことも,2つ,3つはありますよ。忘れずに置きたいのは,およそ新しい発達は全て,発達そのものの特別な傷を伴います。たとえば,生後8か月あたりでは,赤ちゃんは,自分が「お母さんと離れ離れ」であることに,どういうわけか,殊の外,敏感なように見えますね。ですから,その時期の赤ちゃんは,お母さんではなくて,≪私≫が生きている実感を法則にすることが,心の中で重心を増すようになるわけです。同時に,その時期の赤ちゃんは,お母さんの特色や,お母さんが今ここにいてくれることや,お母さん以外の人が見られないことも,よく分かるようになるんです。1歳の時期に,お母さんが突然居なくなることや,お母さんが長期にいなくなることは,敏感な赤ちゃんは,お母さんから離れ離れにされ,見棄てられ,恥落ち込み,恥をかかされて,激しく怒る経験をすることになりますし,不安が強まり,人を避けるようにもなります。繰り返しですが,生後2年目の最初の3ヶ月、13ヶ月〜16ヶ月に,もしも全てがうまく行けば,その赤ちゃんは,前の章でお話しした,生きている実感を話し言葉にして法則にすることを,ちょうど覚え出す頃です。この時期に尻の躾を始めると、赤ちゃんは、自分の力と自分が決めたことに逆らうようになります。というのも,その赤ちゃんは,芽生えたばかりの,歓んで生きる気持ちが挫かれたと感じているように思うからです。赤ちゃんがお母さんから離れ離れにされ、捨てられ、落ち込み、恥と激しい怒りを感じずに済ませることは、赤ちゃんを躾けることよりも、はるかに大切です。というのも、諍いから生きている実感を法則にすることが生まれ出るのに、時がありますし、生きている実感を法則にすることを一方的に犠牲にしても危うくされなくなるにも、時がありますから、というばかりではありません。心から犠牲になる選択をする時期は、自分が生きている実感を生きる指針にする心の習慣が身に付き、繰り返し元気付けられて、素晴らしい心眼を身に付けた「後」だから、ということは、当たり前の話だからですよ。





 1歳前後の赤ちゃんは,自分が生きている実感を話し言葉にして生きる指針にする最も重要で,最も困難な,人生を分ける時期です。生きている実感を生きる指針にすることが最深の心の習慣ですから、通奏低音となる気分の次に,身に付けなくてはなりません
  躾は、その後❗️❗️

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