マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
花を見ると
本当に
うっとりします。
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.24から。その前もご一緒に。
1960年代後半,医学校の1年から2年生になる1年間,精神的に苦しみを医学的に治療することにおける,根底的な変化をたまたま目撃しました。私がついた割のいい仕事は,マサチューセッツ州立精神医学センター研究部の研修医でした。そこで,そこの患者さんたちに,レクリエーション活動を統括する勤めでした。マサチューセッツ州立精神医学センター(MMHC)は,アメリカで最高の精神科病院の1つ,ハーヴァード医学校帝国の国の宝と,長い間みなされていました。私の部門の研究目的は,サイコセラピーと薬のどちらが,統合失調症と診断された精神病に初めてなった若者を治療する治療法として良いのか,ということでした。
お話し療法は,フロイト流の精神分析から枝分かれしてきたものですが,当時のマサチューセッツ州立精神医学センターの精神科では,いまだ主流な治療法でした。ところが,1950年代初め,フランスの科学者グループが,新しい化学化合物,クロロプロマジン(ソラジン,という商品名で売られました)を発見しました。この薬は,患者さんたちを「静かにさせる」ことができてましたし,患者さんたちが,盾突いたり,幻覚を見たりすることを,減らすことができました。これで火が付いた希望が,薬が開発できたら,重たい精神病,うつ病やパニック発作,不安症,躁病も治療できるかもしれないし,統合失調症の一番重たい症状も何とかなるかもしれない,ということでした。
研修医として,私はその部局の研究は全くしませんでしたし,患者さんたちが受けている治療についても一度も話したこともありませんでした。患者さんたちはみな私に近しかったんですし,ハーヴァード,MIT,ボストン大学の大学生でした。自殺しようとした者もあれば,ナイフやカミソリで自分を傷つけた者もありました。ルームメートに食って掛かる者も多かったし,さもなければ,自分の親や友達を,予想もできないような,訳の分からない仕方で怖がる者も多かったんです。私の仕事と言えば,,大学生らしい普通の活動に関われるようにすることでした。それは,地元のピザ屋さんで食事をしたり,近くの森にキャンプに出掛けることでしたし,レッドソックスの試合を見に行くことや,チャールズ川で船遊びをすることでした。
この分野では全くの新参者として,私は,部局の集会の間,心魅せられる思いで意識を集中して,患者さんたちの入り乱れた話や話の展開を読み解こうとしました。また,訳のわからない感情の爆発や,怖がって気持ちを引っ込めてしまうことの相手になる仕方も学ばなくてはなりませんでした。ある朝,1人の女性の患者さんが,身を守る格好で片手を上げて,恐怖に引きつった顔して,部屋で銅像のように突っ立っているのに気が付きました。その女性は,そのまま,12時間以上もの間,動かずにいました。医者たちは,彼女は,カタトニア,緊張病だと教えてくれましたが,私が頼りのしていた教科書には,カタトニアをどう治療するのかは,載っていませんでした。私どもは,カタトニアをほっておくだけでした。
夜明け前のトラウマを負わされた人たち
私は夜や週末に,病棟で過ごすことが多かったんですが,そのおかげで,医者が短い病棟巡回では見逃してしまうことに触れることができました。患者さんたちが寝ていないときに,きつく締め付けたバスローブを着て,うろつき回って,暗いナース・ステーションに話に来ることが多かったんです。夜の静けさのおかげで,患者さんたちは話しやすかったようです。ぶたれたこと,暴力を受けたこと,性的に弄ばれたことを話してくれましたが,それが,その患者さんの親だったり,親戚だったり,クラスの友達だったり,ご近所の人だったり,しました。夜ベッドの横になっていると,助けてくれる人もいないし,オッカナイままにされて,お父さんや男友達にお母さんはぶたれるのが聞こえるし,両親が,お互いに恐ろしい脅し文句を言い合っているのが聞こえるし,家具が壊れるのが聞こえます。父親のことを話す人もいました。その父親は飲んで帰ってきて,階段を上がったところで足音が聞こえて,父親が入ってくるのを待ち,ベッドから引きずり出されて,ありもしないでっち上げの理由で罰を受けた,というわけです。寝られずに,身動きもできずにベッドの中で横になり,逃げられないことを待った,という女性もたくさんいました。お兄さんやお父さんが入ってきて,性的ないたずらをしたんです,と。
朝の巡回の間に,若い医者たちは,指導教授たちに自分のケースを報告しましたが,その儀式は,病棟の研修医たちも,黙って参加することが許されていました。若い医者たちは,私が闇夜に伺った話みたいな話に触れることはほとんどありませんでした。しかしながら,後々の研究によれば,真夜中の告白は的を射たものであると確証を与える場合が多かったんです。今は分かっていることですが,精神病の治療を受けている半数以上の人が,暴力を受け,見捨てられ,気持ちを省みてもらえず,子どもの時にレイプされたり,家族内の暴力を目にしている人たちです。しかし,こういった(訳注:発達トラウマの)体験は,医者たちの巡回では,話題に上りませんでした。
発達トラウマ体験が,半分以上の精神病の元になっている,衝撃的な事実ですね。
真夜中の告白を白日の下に自ら晒して,カタルシスを体験することが,発達トラウマ障害の治療の要です。
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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.106,1行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
ゆとりをもって学ぶ力と(訳注:生きている実感を)正しい生き方(の形にする):その正しい生き方とその正しい見方
その「ゆとりをもって学ぶ力」は,日常生活に,もう1つの礼拝を付け加えます。すなわち,「正しい生き方を全うする」ように,日常生活を礼拝にすることです。この礼拝が日常生活にありませんと,今まで申し上げてきた日常生活を礼拝にする様々な原理も,子どもと大人をパートナーにする躾をなくしてしまうことでしょう。子どもと大人をパートナーにする躾のおかげで,日常生活を礼拝にする様々な原理は,細々とした一連の,ニーズにピッタリと見合った関わりと,やり取り上手な心構えと上手なやり取りを全うする,全体像の持つ品性に,ピッタリと固く結びつくことができるんです。新しくて,いつまでも変わらない形を創造するために,物事で全うできることがあることを示したい,と熱心に願う気持ちは,ゆとりをもって学ぶ力の中で成熟します。あるいは,立って復活するのに必要な知恵がついてきますから,子ども達は学校にやられるようになるんでしょう。ここで,いきなり変わってしまうのですが,遊びは勉強に形を変えますし,ゲームは競争と協力に変わりますし,自由に想像することが,様々なやり方に十分に注意を払って,やらなければならないことに,変わりまいます。決まったやり方のために,自由に空想していることが,人に伝わるもの,説明できるもの,決まった課題に合わせることができるもの,にします。日常生活を礼拝にすることも,今や,真実に,学校と呼ばれる段取りの中で,共に働くものになります。すなわち,日常生活を礼拝にすることは,生徒,教員,クラスのみんながやり取りする中で,共に働くものになります。あらかじめ予定された一連の課題が,文化の全体像が持つ言葉の成長力と身体の成長力に従って組み立てられて,経済的に,技術的に,共に立つことで復活する復活を分かち合うのに欠かせない初歩の様々な術が教えられます。それは狩猟社会でも,農業社会でも,商業社会でも,産業化社会でも,文字通り,科学的社会でも,同じです。様々な社会がそれぞれが,こと細かく,「日常生活の中で,正しい生き方,正しい振る舞い方を礼拝にしていきます」。「日常生活の中で,正しい生き方,正しい振る舞い方を礼拝にすること」は,(ここが,猟や漁をする部族の中では,子どもの頃の様々な生き方をお話しした時に,一番大事な点でした)善く生きる生き方ばかりではなく,うまく生きる生き方に,生まれ変わって,踏みとどまることになるはずです。
私どもはここで立ち止まって考えなくてはならないのは,学校が,経済的な理想や競い方を良しとする学校の在り方ですし,どのように(様々なもの,獲物、競争相手などを)破壊する働きが,建設する働きとともに,学校にあるのかという学校の在り方です。私どもは,短い事例の中で見て分かったのは,ユーロックの人たちが,サケに信心深く語りかけ,思いを巡られていたことでしょう。ユーロックの人々は,サケに向かって,神の国の中で,君たちは永遠の種ですからね,と約束していますけれども,それは,君たちがわれらがユーロックの人々にたくさん捕まって,飲食に供する限りだからね,ということです。そして,事実で,サケの遡上のピークの時に,毎年クラマス川に,厳かな礼拝を執り行って,大喜びして,ダムを作ると,ユーロックの人々は,大漁に恵まれます。たほう,十分な数の大人のサケが上流の産卵地まで遡上できるようにしますし,だからこそ,十分なサケの子孫は,下流に下り,決まった時期に戻るまで,大海の中に消え去ることができます。自然を超越する不思議な確信にピッタリと合ったこういった生業は,また,土を耕す農民にとっても必要なことですが,それは,自然が丸裸にされることを受け止めて,毎年実りの豊かさをもたらすとともに,豊かさを,しかも十分に豊かなままであることを保たなくてはなりませんから。自然を超越する不思議な確信は,商人が自立するのにも必要です。というのも,商人も,商品を集めて,人々から利益を生み出しますが,その際商人は,人々を,奴隷としてではなくても,市場の道具か操り人形として,利用するからです。工業化社会が進みますと,とても解き難い問を突き付けられますね。その問とは,的外れなことをしている,という昔ながらの感覚はどうなるのか? という問です。というのも,人間様もまた,機械の役に立つためには,自分が機械にならなくてはなりませんし,人を機械にしなくてはならないとともに,大事な決定を機会に譲渡さなくてはなりません。しかしながら,的外なことをしている,という昔ながらの感覚は,機械を完璧に動かしていることによって,誤魔化せます。機械を完璧に動かすことは,バラバラになってしまったこの世の中のカケラの定めにピッタリと合っています。一つもかけたところのない,聖書の神様が予定している高尚な秩序であるシャロームに貢献する者は,幸いですし,利益と称賛も手に入れますから,ある程度まで,誰を,どんなことを利用し,無視したのかを忘れることができます。そこには,自分自身の気が付かずにいる能力も含まれます。
とにかく,学校の力は,日常生活の中で,自分がやることを正しい生き方にする礼拝を,心の中に生みます。この礼拝は納得できるし,腑に落ちたものになるのは,この礼拝が,実感はあるし,すでに加わってもいる高貴な秩序(神の国)になるからです。この「正しい生き方」の視点が,ヌミノースの原理,ルールの言葉の原理,生きている実感に則って遊ぶ原理に,付け加わりますと,本物の日常生活の礼拝の様相を理解することに近づいた感じになります。
ゆとりをもって学ぶ力に馴染めないのは,「自分が生きている実感を下に見る」感じです。教えられた正しい生き方の求めに,心身ともに及ばないと感じることです。たほう,正しい形にとらわれすぎること,完璧主義,中身のない形ばかりをやる危険,も分かります。この舞台にも,偽物の礼拝を名付けなくてはなりませんが,ここでは,偽物の礼拝は,「さまざまな仕事」が人を作り出す格好をしたり,一人前の腕が真実を作り出す格好をしたりします。それは,お役所仕事でしょ。名前がどうであれ,ハッキリと申し上げておかなくてはならないのは,人が正しい生き方や筋道を得たいと願う願いも,また,あの自分を売って子分になる生き方にもなるという事実です。この自分を売って子分になる生き方によって,マルクスが「専門バカ」と呼んだ者にみんながなってしまいます。
お役所仕事。それは,小学生の時に生まれることが分ります。
お役所仕事は,自分を売って子分になる生き方で,人のためになることは一つもせぬままに,お零れ頂戴にあくせくする生き方です。
専門バカも,仕事について,あれこれ格好良いことは言えても,中身がありません。
#心の端っこでおきていること #受け身で体験したことを能動的に再体験する #自分から関われるようになる歓び近親相姦と自己免疫病は関係がある? 横領は、神様に似ている?! 史的イエス 信頼がなくなると、偶像が登場します。偶像崇拝と言われても、ピ......
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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.73の,7行目途中からです。 その前も,ご一緒に。
≪私≫が生きている実感を法則にすること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すけれども,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと
スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。
元気いっぱい
冒険したい気持ち
もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。
あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え
事故を防ぐ
赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時
自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?
物を落としたり,投げたりすること
子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる
噛みつく人間
寝る時間を良い時間にする
夜になっても寝ようとしない幼子
私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志がぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。
この創造の舞台で,何よりも大事なことは,筋肉が育って,その結果できることも増えてくる(できない,と感じるのも,母子2人になります)中で,「我慢する」と「手放す」という2つの非常に相矛盾する行動バターンを補い合って共に働くことができるように成熟することですし,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を自分の法則にして,歓んで生きていく意志を自分自身に与えるのに,途轍もなく重要だ,ということです。
精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにする全ての道は,「心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さんが共に育つと,できるだけ自分を空っぽにすると,必ず「心地よく感じる」ご褒美をもらえる体験が必要不可欠な,状況を好転させる働きとなります。素晴らしい立ち姿で立つことができて,筋肉が創造のために整えられると,≪私≫が生きている実感に法則にして歓んで生きる意志を実感通りにノビノビと自由に生きる力が育ちますし,≪私≫が生きている実感を零して,捨て去る力も育ちます。しかし,母子の出会いを研究する新たな評価は,母子を固く結びつける様々な絆があることに限りません。実際に,創造する唯一の力,強い影響力のある上等な唯一無二の生命力(である,聖書の神様)は,≪私≫が生きている実感を零して,創造の目的から的まずれにする力も育てますし,≪私≫が生きている実感を実感通りに見守ったり,出して生きたりすることを,代わりばんこにする力も育てます。
お尻の穴に関する限り,この点では,全ては,文化的状況がお尻の穴を大切にするかどうか次第です。両親が,お尻の穴が出したり引っ込めたりする行動の仕方を大切にしないで,年上の子ども達が,よちよち歩きの子どもを茂みに連れていくのに任せて,お尻のことはキチンとしたいと思う気持ちが,目上の子ども等の真似をしたいと願う気持ちと一致するようにする文化もあります。私ども西洋の市民社会,特に,市民社会のかなりの階層の人たちは,お尻の穴のしつけを,かなり厳格に考えます。まさに機械化の時代によって,機械みたいにしつけ,間違いなく働き,いつもきれいで,時間通りで,しかも,無臭の身体であることが理想である,と見なされるようになっています。それに加えて,大なり小なり,意識的な正しいと思われているのは,赤ちゃんの時に厳格に躾けることは,「時は金なり」とされ,規律正しいこと,時間通りであること,成功することが持て囃される機械化の時代の波に乗ってうまく立ち回れる人種になるためには,絶対に必要なことだ,ということです。これが意味することは,私どもは,厳しく躾け過ぎだ,ということです。つまり,子どもは,躾なければならない動物か,設定し,調子を調整しならない機械みたいに思っています。たほうで,実際に,人間らしい品性は,少しずつしか成長することができません。いずれにせよ,私どもが臨床をしていて分かることは,私たちの時代の精神過敏な人は,「過剰に強迫的な」タイプだ,ということです。「過剰に強迫的な」タイプの人は,下のことだけではなくて,愛情,時間,お金の点も,ケチで,がめつく,細かいもんです。うんちとオシッコのトレーニングもまた,私どもの社会はやらなくてはならないことがたくさんある中で躾をする際に,一番厄介な躾になっています。
それじゃあ,何で,お尻の穴の問題が,大切で,しかも,困難なのでしょうね?
お尻の穴,という身体部位は,身体部位の中で,互いにぶつかり合う2つの力の上で,ぶつかり合いから生まれる,私が生きている実感がハッキリと不動にされることに,一番役立ちます。というのも,第一に,お尻の穴は,互いに反対のことを言い合う行動パターンのための身体の部分だからです。互いに反対のことを言い合う行動パターンとは,すなわち,「尻込み・我慢」と「敷居を超え出る」が代わりばんこになるものです。第二に,括約筋は,締め付けると緩めるの2重の意味のある筋肉, 曲げると伸ばすの2重の意味がある筋肉だからです。ですから,この1歳前後の舞台全体が,≪私≫が生きている実感を自分の法則にするための,1つのぶつかり合いになります。というのも,1歳前後の赤ちゃんが,自分の足で立つ準備ができているように,赤ちゃんは,自分の世界を,「私は」と「あなたは」,「私に」と「私のもの」という話し言葉で,正確に描きますから。お母さんであればどなたでも知っていることですが,子どもは1歳前後の舞台では,ビックリするほど素直なのは,自分がすべきことを「望もう」と心に決めた場合です。ところが,1歳前後の赤ちゃんが,すべきことを望むようにするのに頼れるお祈りを見つけられません。お母さんであればどなたでも知っていることは,擦り寄ってくるときには,とても愛らしいのに,大人を押し退けるときには,とても冷たい,ということです。1歳前後の赤ちゃんは,いろんなものを大事に貯め込見がちであると同時に,いろんなものをポイと捨てがちです。いろんなものを独り占めにしたいのに,そのいろんなものを窓から捨てたいのです。ですから,こういった,一見相矛盾する様々な傾向は全て,我慢と出すという決まった行動パターンのもとに含めます。
母子の間で,あ互いに,相手の行動パターンに自分の行動パターンを合わせあうことを生み出すことが,一番厄介な試練に直面します。神様の命の回転とは逆向きに,あまりにも厳格に,しかも,あまりにも早期に,お母さんが外から赤ちゃんの行動パターンを,コントロールするお母さんの気持ちが,赤ちゃんが自分のお腹や他の働きを,歓んで,自由な選択によって,「一つ一つ」自分でやろうと努力する赤ちゃんの気持ちを奪うことの上に立つ結果になりますと,その赤ちゃんも,写し鏡になった母子2人も,同じ反抗の顔と,同じ満たされない顔をします。自分の身体が言うことを聞かないし(よく自分のお腹が心配になります),外側にいる人も当てになりませんと,赤ちゃんは,元に戻るか,あるいは,偽りの前進によって,満足し,命が回転するようにせざるを得ません。別の言葉で言えば,その赤ちゃんは,生まれたばかりの時の,最初の口を介したコントロール,すなわち,自分の親指をしゃぶったり,不機嫌になり,とても手がかかるようになったりしますし,,敵になったり,わがままになったりして,ウンチ(後には,汚い言葉)を爆弾として使います。あるいは,赤ちゃんは,生きている実感に従って,誰にも頼らずに何でもできるような恰好をするようになるんですが,実際には,これまで頼りになる人が,いた試しがないんです。
この舞台では,ですから,人を大切に思う気持ちと人を悪く思う気持ちの割合や,人と力を合わせることとわがまま勝手をすることの割合,それに,自分が生きている実感通りに自由に生きられるのか,それとも,自分が生きている実感を押し殺して生きるのか,の割合を決める分かれ道になります。「≪私≫が生きている実感を大切にしながら,≪私≫が生きている実感が正しいことを確かめる」心の習慣から,≪私≫が生きている実感を人生の法則にすることと,前向きに生きる気持ちが生まれます。筋肉とお尻の穴がうまくできない感じと,自分のことを自分でできない感じと,親が口うるさい感じから,≪私≫が生きている実感を生きられないのが自分のせいなのか親のせいなのか迷う心の習慣と,≪私≫が生きている実感を生きることにいつも恥じて隠す心の習慣が生まれてきます。
≪私≫が生きている実感を法則にすることを育てるためには,赤ちゃんの時期に,自分自身と世の中を根源的に信頼する信頼が不動になるように育てられ,確信をもって続けられるようにしなくてはなりません。≪私≫が生きている実感を法則にできるような赤ちゃんは,≪私≫が生きている実感と人様を根源的に信頼する聖書の神様に対する信頼(聖書の神様を信頼する根源的信頼感は,決して失うことのない天国の宝物ですから,最初の舞台の諍いから自由にしてくれます)は,急に強く,いいものが欲しくなっても,なんでも独り占めしたくなっても,頑なに,嫌いな人を押し除けたりしたくなっても,危険にされさることはないでしょう。「辛抱強くて,一つもウソのない真実な約束」が守って下さるおかげで,赤ちゃんは,まだしつけられていない分別が迷ったり,思い煩ったりすることも,ありませんし,必ず神様の命が一巡することを信頼して,めげずに信頼する立場に踏みとどまることもできますし,人に自由をプレゼントすることもできます。しかし,周りの大人たちは,その赤ちゃんが「自分の足で立つ復活」を願うように,赤ちゃんを手助けしなくてはなりません。それは,その赤ちゃんが,いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることがないようにするためです。いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることを,恥,あるいは,2番目の信頼の失敗,と呼びますが,それは,「善悪どちらにも取れる」ことですから,私どもは「迷い,思い煩い」と呼びます。
「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,子どもっぽい気持ちで,まだ十分に研究されていません。恥は,丸裸にされて,人から見られていることに気付いたことを前提にしています。一言で言えば,自分の行動を意識している,ということです。見られているのに,見られる準備ができていないんです。ですから,私どもは,まだ服もろくすっぽ着ておらず,しかも,お尻丸出しの状態で,寝間着姿で,人から見られる恥ずかしい夢を見るんです。「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,赤ちゃんの時には,自分の顔を埋めようとする気持ちに現れますし,地面に,その場ですぐに,自分の顔を鎮める気持ちに現れます。この「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」になることがある,ということが,何かを教える時に,「恥ずかしい思いをさせて,≪私≫が生きている実感を隠させる(訳注:忖度)」といったやり方で,乱用される場合がとても多いんです。これは,もっぱら,幼稚な大人達がやらかすことです。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせると,後でお話しすることになる,一層破壊的なことが多い,ダメだぁ,という気持ちになります。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせることが破壊的であることは,いくつかの市民社会の中では,様々な工夫を凝らして「面目を保つ」ことと引き換えになっています。子どもに恥をかかせることは,自分はダメな子なんだと実感する,次第に強まる実感を悪用するんです。自分はダメな子なんだという実感は,矛盾しているんですが,その子が立ったり,その子が,大きさや力を人と比べることができるようになったりするにつれて,大きくなります。
恥をかかせ過ぎますと,結局は,キチンとやりましょうという気にはなりません。むしろ,人が見てないところで,こっそりやればいい,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心させることになります。アメリカの民謡に,一人の殺人犯が,人々の晒し者になって,絞首台の露となった話がありますが,その場にふさわしく,恐れたり,恥じ入ったりする代わりに,見物人たちを咎めだて始めて,終いには,ありとあらゆる罵るような言葉を浴びせかけましてこう言いました「目が潰れちまえ」と。1歳2歳の幼子は,我慢ならないほどに恥をかかされますと,「目が潰れちまえ」と同じような意味で,信頼できない気分になるものです(その気持ちを言葉に出す勇気も言葉もありませんが…)。こんな好ましからざることに触れたのは,子どもでも,大人でも,自分自身,自分の身体,自分が必要な様々なこと,自分がしてほしい様々なことが,ダメで汚らわしいと見なすように押し付けられても,我慢にも1つの限度がある,ということですし,自分のことをダメだと裁く相手が間違ってないことを信頼するのにも,1つの限度がある,ということです。時には,立場が逆転しがちなもんで,他にやり方があることも忘れて,自分を裁く人たちが今ここにいる,っていうことそのものを悪と見なすようになりがちです。日々裁かれて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心したものにチャンスが回ってくるのは,日々裁く者たちがいなくなった時か,日々裁く者たちから離れることができる時です。
反抗的な子ども,犯罪を犯した青年は,恥をかかされすぎて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心した人が多いんですから,その悪の道にその子らを至らしめた様々な条件をよくよく調べてみるに値しますね。
繰り返します。筋肉が発達しますと,本来は1つなのに(訳注:ぶつかり合っている)人との関係の2つの仕方,「手放さすに待つ」と「手放す」,を実験する舞台ができます。すべての人生の習慣について言えることですが,この根源的な諍いから,結局は,人を敵と見下して,敵対する生き方も生まれてきますし,人を心優しい人と認めて,心から優しくする生き方も生まれてきます。このように,「手放さずに待つ」ことが,破壊的で,しかも,残忍に本心を隠させ,押さえ付けることにもなりますし,心から人を大切にする1つもモデルになりますから,(訳注:結婚式の誓いの言葉のように)「毎日一緒にいます」ということになります。「手放す」ことも,破壊的ないろんな力を,敵討ちみたいに,発揮することにもなりますし,鷹揚に「見逃してやる」ことや「そのままにしておく」ことにもなります。人格形成の視点から申し上げれば,「手放さずに待つ」ことと「手放す」ことの生き方は,良くも悪くもなります。このぶつかり合う2つの生き方の値打ちは,敵対する生き方が,敵や仲間,あるいは,自分自身に向けられるのかどうかにかかっています。
この最後に名付けた危機は,精神科医に一番よく知られている危機です。自由に生き方を選ぶことを自分の人生の法則にすることができるように,ゆったりと,上手に手伝ってもらうことができない,あるいは,生まれて1年間の間に,生きている実感とそれを認めないお母さんを信頼する気持ちが弱められますと,そのビクビクして傷つきやすい(訳注:発達トラウマ障害の)子どもは,良いお母さんとそうでないお母さんを区別したい強い気持ちと,お母さんに手で触りたい強い気持ちを,自分に向けるようになることがあります。そのビクビクして傷付きやすい発達トラウマの子どもは,「生きている実感を失う」ようになりますし,「できそこないの良心」が伸びてしまいます。繰り返し遊ぶことで様々なものを試すために,様々なものを手に入れるのではなくて,自分自身が繰り返すことそのものに囚われるようになります。すべての物事が「自分が思った通りに」あるように願うのですが,それには,決まった順番があり,決まったテンポがあります。このように子どもっぽい囚われによって,たとえば,ブラブラすることで,あるいは,様々なやり方にうるさくこだわることによって,その子は,現実に互いに大切にしあうことができないので,様々な場で親や面倒を見る人の上に立つ力を得るようになります。このような中身のない勝利は,お互いに押し付け合う脳の病の,子どもっぽい見本になります。お互いに押し付け合う脳の病が大人の性質に及ぼす影響はどうかといえば,その影響は,すでに指摘した古典的な強迫的な性質になかに観察されます。付け加えなくてはならないのは,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心してやったことを,ゴマカシて逃げ切りたいと願う願いに支配された性格の人です。
一歳半が人生の永遠の分かれ道。
かくして,押しつけの人は脳の病,ウソとゴマカシだらけの人も,脳の病。
そのお里は一歳半ということです。