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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.75の,第2パラグラフ,13行目途中からです。 その前も,ご一緒に。
≪私≫が生きている実感を法則にすること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すけれども,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと
スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。
元気いっぱい
冒険したい気持ち
もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。
あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え
事故を防ぐ
赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時
自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?
物を落としたり,投げたりすること
子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる
噛みつく人間
寝る時間を良い時間にする
夜になっても寝ようとしない幼子
私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志がぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。
この創造の舞台で,何よりも大事なことは,筋肉が育つことと,「我慢する」と「手放す」という互いによくぶつかり合う行動パターンを,ピッタリと一体とすることに,母子2人が共に従うことができること(できない,と感じるのも,母子2人になります)と,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を自分の法則にして,歓んで生きていく意志を体得するのに,途轍もなく重要だ,ということです。
精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにする全ての道は,「心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さんが共に育つと,できるだけ自分を空っぽにすると,必ず「心地よく感じる」ご褒美をもらえる体験が必要不可欠な,状況を好転させる働きとなります。素晴らしい立ち姿で立つことができて,筋肉が創造のために整えられると,≪私≫が生きている実感に法則にして心から歓んで生きる意志を実感通りにノビノビと自由に生きる力が育ちますし,≪私≫が生きている実感を零して,捨て去る力も育ちます。しかし,母子の出会いを研究する新たな評価は,母子を固く結びつける様々な絆があることに限りません。実際に,創造する唯一の力,強い影響力のある上等な唯一無二の生命力(である,聖書の神様)は,≪私≫が生きている実感を零して,創造の目的から的まずれにする力も育てますし,≪私≫が生きている実感を実感通りに見守ったり,出して生きたりすることを,代わりばんこにする力も育てます。
お尻の穴に関する限り,この点では,全ては,文化的状況がお尻の穴を大切にするかどうか次第です。両親が,お尻の穴が出したり引っ込めたりする行動の仕方を大切にしないで,年上の子ども達が,よちよち歩きの子どもを茂みに連れていくのに任せて,お尻のことはキチンとしたいと思う気持ちが,目上の子ども等の真似をしたいと願う気持ちと一致するようにする文化もあります。私ども西洋の市民社会,特に,市民社会のかなりの階層の人たちは,お尻の穴のしつけを,かなり厳格に考えます。まさに機械化の時代によって,機械みたいにしつけ,間違いなく働き,いつもきれいで,時間通りで,しかも,無臭の身体であることが理想である,と見なされるようになっています。それに加えて,大なり小なり,意識的な正しいと思われているのは,赤ちゃんの時に厳格に躾けることは,「時は金なり」とされ,規律正しいこと,時間通りであること,成功することが持て囃される機械化の時代の波に乗ってうまく立ち回れる人種になるためには,絶対に必要なことだ,ということです。これが意味することは,私どもは,厳しく躾け過ぎだ,ということです。つまり,子どもは,躾なければならない動物か,設定し,調子を調整しならない機械みたいに思っています。たほうで,実際に,人間らしい品性は,少しずつしか成長することができません。いずれにせよ,私どもが臨床をしていて分かることは,私たちの時代の精神過敏な人は,「過剰に強迫的な」タイプだ,ということです。「過剰に強迫的な」タイプの人は,下のことだけではなくて,愛情,時間,お金の点も,ケチで,がめつく,細かいもんです。うんちとオシッコのトレーニングもまた,私どもの社会はやらなくてはならないことがたくさんある中で躾をする際に,一番厄介な躾になっています。
それじゃあ,何で,お尻の穴の問題が,大切で,しかも,困難なのでしょうね?
お尻の穴,という身体部位は,身体部位の中で,互いにぶつかり合う2つの力の上で,ぶつかり合いから生まれる,私が生きている実感がハッキリと不動にされることに,一番役立ちます。というのも,第一に,お尻の穴は,互いに反対のことを言い合う行動パターンのための身体の部分だからです。互いに反対のことを言い合う行動パターンとは,すなわち,「尻込み・我慢」と「敷居を超え出る」が代わりばんこになるものです。第二に,括約筋は,締め付けると緩めるの2重の意味のある筋肉, 曲げると伸ばすの2重の意味がある筋肉だからです。ですから,この1歳前後の舞台全体が,≪私≫が生きている実感を自分の法則にするための,1つのぶつかり合いになります。というのも,1歳前後の赤ちゃんが,自分の足で立つ準備ができているように,赤ちゃんは,自分の世界を,「私は」と「あなたは」,「私に」と「私のもの」という話し言葉で,正確に描きますから。お母さんであればどなたでも知っていることですが,子どもは1歳前後の舞台では,ビックリするほど素直なのは,自分がすべきことを「望もう」と心に決めた場合です。ところが,1歳前後の赤ちゃんが,すべきことを望むようにするのに頼れるお祈りを見つけられません。お母さんであればどなたでも知っていることは,擦り寄ってくるときには,とても愛らしいのに,大人を押し退けるときには,とても冷たい,ということです。1歳前後の赤ちゃんは,いろんなものを大事に貯め込見がちであると同時に,いろんなものをポイと捨てがちです。いろんなものを独り占めにしたいのに,そのいろんなものを窓から捨てたいのです。ですから,こういった,一見相矛盾する様々な傾向は全て,我慢と出すという決まった行動パターンのもとに含めます。
母子の間で,あ互いに,相手の行動パターンに自分の行動パターンを合わせあうことを生み出すことが,一番厄介な試練に直面します。神様の命の回転とは逆向きに,あまりにも厳格に,しかも,あまりにも早期に,お母さんが外から赤ちゃんの行動パターンを,コントロールするお母さんの気持ちが,赤ちゃんが自分のお腹や他の働きを,歓んで,自由な選択によって,「一つ一つ」自分でやろうと努力する赤ちゃんの気持ちを奪うことの上に立つ結果になりますと,その赤ちゃんも,写し鏡になった母子2人も,同じ反抗の顔と,同じ満たされない顔をします。自分の身体が言うことを聞きませんし(よく自分のお腹が心配になります),外側にいる人も当てになりませんと,赤ちゃんは,元に戻るか,あるいは,偽りの前進によって,満足し,命が回転するようにせざるを得ません。別の言葉で言えば,その赤ちゃんは,生まれたばかりの時の,最初の口を介したコントロール,すなわち,自分の親指をしゃぶったり,不機嫌になり,とても手がかかるようになったりしますし,,敵になったり,わがままになったりして,ウンチ(後には,汚い言葉)を爆弾として使います。あるいは,赤ちゃんは,生きている実感に従って,誰にも頼らずに何でもできるような恰好をするようになるんですが,実際には,これまで頼りになる人が,いた試しがないんです。
この舞台では,ですから,人を大切に思う気持ちと人を悪く思う気持ちの割合や,人と力を合わせることとわがまま勝手をすることの割合,それに,自分が生きている実感通りに自由に生きられるのか,それとも,自分が生きている実感を押し殺して生きるのか,の割合を決める分かれ道になります。「≪私≫が生きている実感を大切にしながら,≪私≫が生きている実感が正しいことを確かめる」心の習慣から,≪私≫が生きている実感を人生の法則にすることと,前向きに生きる気持ちが生まれます。筋肉とお尻の穴がうまくできない感じと,自分のことを自分でできない感じと,親が口うるさい感じから,≪私≫が生きている実感を生きられないのが自分のせいなのか親のせいなのか迷う心の習慣と,≪私≫が生きている実感を生きることにいつも恥じて隠す心の習慣が生まれてきます。
≪私≫が生きている実感を法則にすることを育てるためには,赤ちゃんの時期に,自分自身と世の中を根源的に信頼する信頼が不動になるように育てられ,確信をもって続けられるようにしなくてはなりません。≪私≫が生きている実感を法則にできるような赤ちゃんは,≪私≫が生きている実感と人様を根源的に信頼する聖書の神様に対する信頼(聖書の神様を信頼する根源的信頼感は,決して失うことのない天国の宝物ですから,最初の舞台の諍いから自由にしてくれます)は,急に強く,いいものが欲しくなっても,なんでも独り占めしたくなっても,頑なに,嫌いな人を押し除けたりしたくなっても,危険にされさることはないでしょう。「辛抱強くて,一つもウソのない真実な約束」が守って下さるおかげで,赤ちゃんは,まだしつけられていない分別が迷ったり,思い煩ったりすることも,ありませんし,必ず神様の命が一巡することを信頼して,めげずに信頼する立場に踏みとどまることもできますし,人に自由をプレゼントすることもできます。しかし,周りの大人たちは,その赤ちゃんが「自分の足で立つ復活」を願うように,赤ちゃんを手助けしなくてはなりません。それは,その赤ちゃんが,いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることがないようにするためです。いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることを,恥,あるいは,2番目の信頼の失敗,と呼びますが,それは,「善悪どちらにも取れる」ことですから,私どもは「迷い,思い煩い」と呼びます。
「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,子どもっぽい気持ちで,まだ十分に研究されていません。恥は,丸裸にされて,人から見られていることに気付いたことを前提にしています。一言で言えば,自分の行動を意識している,ということです。見られているのに,見られる準備ができていないんです。ですから,私どもは,まだ服もろくすっぽ着ておらず,しかも,お尻丸出しの状態で,寝間着姿で,人から見られる恥ずかしい夢を見るんです。「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,赤ちゃんの時には,自分の顔を埋めようとする気持ちに現れますし,地面に,その場ですぐに,自分の顔を鎮める気持ちに現れます。この「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」になることがある,ということが,何かを教える時に,「恥ずかしい思いをさせて,≪私≫が生きている実感を隠させる(訳注:忖度)」といったやり方で,乱用される場合がとても多いんです。これは,もっぱら,幼稚な大人達がやらかすことです。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせると,後でお話しすることになる,一層破壊的なことが多い,ダメだぁ,という気持ちになります。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせることが破壊的であることは,いくつかの市民社会の中では,様々な工夫を凝らして「面目を保つ」ことと引き換えになっています。子どもに恥をかかせることは,自分はダメな子なんだと実感する,次第に強まる実感を悪用するんです。自分はダメな子なんだという実感は,矛盾しているんですが,その子が立ったり,その子が,大きさや力を人と比べることができるようになったりするにつれて,大きくなります。
恥をかかせ過ぎますと,結局は,キチンとやりましょうという気にはなりません。むしろ,人が見てないところで,こっそりやればいい,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心させることになります。アメリカの民謡に,一人の殺人犯が,人々の晒し者になって,絞首台の露となった話がありますが,その場にふさわしく,恐れたり,恥じ入ったりする代わりに,見物人たちを咎めだて始めて,終いには,ありとあらゆる罵るような言葉を浴びせかけましてこう言いました「目が潰れちまえ」と。1歳2歳の幼子は,我慢ならないほどに恥をかかされますと,「目が潰れちまえ」と同じような意味で,信頼できない気分になるものです(その気持ちを言葉に出す勇気も言葉もありませんが…)。こんな好ましからざることに触れたのは,子どもでも,大人でも,自分自身,自分の身体,自分が必要な様々なこと,自分がしてほしい様々なことが,ダメで汚らわしいと見なすように押し付けられても,我慢にも1つの限度がある,ということですし,自分のことをダメだと裁く相手が間違ってないことを信頼するのにも,1つの限度がある,ということです。時には,立場が逆転しがちなもんで,他にやり方があることも忘れて,自分を裁く人たちが今ここにいる,っていうことそのものを悪と見なすようになりがちです。日々裁かれて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心したものにチャンスが回ってくるのは,日々裁く者たちがいなくなった時か,日々裁く者たちから離れることができる時です。
反抗的な子ども,犯罪を犯した青年は,恥をかかされすぎて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心した人が多いんですから,その悪の道にその子らを至らしめた様々な条件をよくよく調べてみるに値しますね。
繰り返します。筋肉が発達しますと,本来は1つなのに(訳注:ぶつかり合っている)人との関係の2つの仕方,「手放さすに待つ」と「手放す」,を実験する舞台ができます。すべての心の習慣について言えることですが,この根源的な諍いから,結局は,人は敵と見なして(見通して),敵対する心の習慣も生まれてきますし,人は心優しい人と認めて(見通して),心から優しくする心の習慣も生まれてきます。このように,「手放さずに待つ」ことが,破壊的で,しかも,残忍に本心を隠させ,押さえ付けることにもなりますし,心から人を大切にする1つもモデルになりますから,(訳注:結婚式の誓いの言葉のように)「毎日一緒にいます」ということになります。「手放す」ことも,破壊的ないろんな力を,敵討ちみたいに,発揮することにもなりますし,鷹揚に「見逃してやる」ことや「そのままにしておく」ことにもなります。人格形成の視点から申し上げれば,「手放さずに待つ」ことと「手放す」ことの生き方は,良くも悪くもなります。このぶつかり合う2つの生き方の値打ちは,敵対する生き方が,敵や仲間,あるいは,自分自身に向けられるのかどうかにかかっています。
この最後に名付けた危機は,精神科医に一番よく知られている危機です。自由に生き方を選ぶことを,生きている実感を法則にする中で実現できるように,ゆったりと,上手に手伝ってもらうことができない,あるいは,生まれて1年間の間に,生きている実感とそれを認めないお母さんを信頼する気持ちが弱められますと,そのビクビクして傷つきやすい(訳注:発達トラウマ障害の)子どもは,良いお母さんとそうでないお母さんを区別したい強い気持ちと,お母さんに手で触りたい強い気持ちを,自分に向けるようになることがあります。そのビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,「生きている実感を失う」ようになりますし,「できそこないの良心」が伸びてしまいます。繰り返し遊ぶことで様々なものを試すために,様々なものを手に入れるのではなくて,自分自身が繰り返すことそのものに囚われるようになります。すべての物事が「自分が思った通りに」あるように願うのですが,それには,決まった順番があり,決まったテンポがあります。このように子どもっぽい囚われによって,たとえば,ブラブラすることで,あるいは,様々なやり方にうるさくこだわることによって,その子は,現実に互いに大切にしあうことができないので,様々な場で親や面倒を見る人の上に立つ力を得るようになります。このような中身のない勝利は,お互いに押し付け合う脳の病の,子どもっぽい見本になります。お互いに押し付け合う脳の病が大人の性質に及ぼす影響はどうかといえば,その影響は,すでに指摘した古典的な強迫的な性質になかに観察されます。付け加えなくてはならないのは,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心してやったことを,ゴマカシて逃げ切りたいと願う願いに支配された性格の人です。しかし,ゴマカシで逃げ切りたいという願いは叶いません。ビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,人を避けるようになりますから,その「できそこないの良心」のために,何物もゴマカシて逃げ切ることができませんし,生涯にわたって,いつも,≪私≫が生きている実感を恥じて隠し,いつも身構えていますし,いつも見られることを恐れます。あるいは,ほかに,私どもが「忖度(譲りすぎ)」と呼ぶ仕方で,発達トラウマ障害の子どもらは,生きている実感を法則にすることに逆らうようになります。しかしながら,生きている実感を生きる法則にして実際に歓んで生きる,という事は,おくびにも出しません。
しかし,障害についていろいろ考えるところから,小児科医の実際に役立つアドヴァイスを伝える見出しを研究することに戻る時です。このいろんな見出しは,次のようになります。すなわち,この1歳2歳の舞台の子どもに忠実であれ,忍耐強くあれ,そうすれば,その子どもも,自分自身に忠実になれますし,忍耐強くなりますよ。その子どもは,生きている実感を法則にできる人間であることに心満たされるようになります。時には,何かをやっても,見つからずに済む,ということもありますけれども。
それじゃあ,なぜ,この心の中にあり,この生まれながらに備えられている,生きている実感を法則にすることを育むために何をすべきなのか,というを,たとえ,それが分かったとしても,事細かに親たちに伝えないんでしょうか? その答えは,生きている実感を法則にすることが,人間らしい価値になる時には,この生まれながらに備わっている,生きている実感という繋ぎ目を作り出すやり方,あるいは,それを何とか作り出す方法が,どなたにもわからないからです。私自身の専門分野の精神分析は,物差しに合わない程,あるいは,理に叶わない程,自分はダメだという感覚が過剰になることを特に研究してきましたし,自分はダメだという感覚が過剰になると,子どもが身体とバラバラになるように母親らが見当違いに関ることを研究してきましたが,子ども達にしてはならないことを,少なくても,ハッキリと言葉にしようとしました。しかしながら,こういった言葉は,あいまいな警告から,とても厄介な決まり事を作り出しがちな人の中で,子どもたちの上に立つ様々な禁止事項を次々に作り出すことになりがちです。関わる中で,私どもは,「どんな力」が働くと,子どもが「とても優しいこと」を実現することに「ならない」ことは,少しずつしかわかりませんから。
この世の人々が確信しているように見えるのは,(その人の立場から見て)子どもを正しい人にするためには,1人の子どもの人生に,恥,迷い,ダメだぁ,おそれを感じる気持ちを,言ってることとやってることが一貫する形で,分からせなくちゃ,ということです。ただ,その子育てのやり方はいろいろです。文化によって,幼いころからやる文化もあれば,遅くからやる文化もありますし,あるいは,知らず知らずのうちにやる文化もあれば,徐々にやる文化もあります。十分な比較ができるまでは,間違った信念をさらに増やすことになりがちですが,それは,心の病を「0にしたい」と願いながら,心の病の条件に見合う確かな要因についてハッキリとは分からないからです。ですから,私ども次のように言っています。はやく離乳させなきゃぁ,と焦らないで。早くしつけをしなきゃぁと,慌てないで。しかし,早すぎる躾,遅すぎる躾とは何か,という判断は,私どもが避けたいと願う心の病になることだけではなくて,私どもが作り出したいと願う様々な価値によっても,違ってきます。あるいは,もっと誠実に申し上げれば,躾の良し悪しの判断は,私どもが信じて従っている勇ましく高尚なる生涯によって決まってくるのです。というのも,私どもがいくらコマゴマとしたことまで気を配ってやったとしても,その子どもが一番敏感に感じ取るのは,私どもが信頼して忠実に従っている生き方,心から自分と人を大切にして,人と共に仲良く働き,不動で筋が通った人格を私どもに培わせている存在(訳注:聖書の神様,あるいは,善き良心),また,自分と人を心から激しく嫌って,何かにつけて心配し,人をわけ隔てする人物に仕立てあげる存在(訳注:悪い良心),なんですから。
もちろん,エピジェネシスの視点,すなわち,≪私≫が生きている実感を不動にする,聖書の神様が天上から,創造の初めに予定した視点から見て,避けなくてはならないことも,2つ,3つはありますよ。忘れずに置きたいのは,およそ新しい発達は全て,発達そのものの特別な傷を伴います。たとえば,生後8か月あたりでは,赤ちゃんは,自分が「お母さんと離れ離れ」であることに,どういうわけか,殊の外,敏感なように見えますね。ですから,その時期の赤ちゃんは,お母さんではなくて,≪私≫が生きている実感を法則にすることが,心の中で重心を増すようになるわけです。同時に,その時期の赤ちゃんは,お母さんの特色や,お母さんが今ここにいてくれることや,お母さん以外の人が見られないことも,よく分かるようになるんです。1歳の時期に,お母さんが突然居なくなることや,お母さんが長期にいなくなることは,敏感な赤ちゃんは,お母さんから離れ離れにされ,見棄てられ,恥落ち込み,恥をかかされて,激しく怒る経験をすることになりますし,不安が強まり,人を避けるようにもなります。繰り返しですが,生後2年目の最初の3ヶ月、13ヶ月〜16ヶ月に,もしも全てがうまく行けば,その赤ちゃんは,前の章でお話しした,生きている実感を話し言葉にして法則にすることを,ちょうど覚え出す頃です。この時期に尻の躾を始めると、赤ちゃんは、自分の力と自分が決めたことに逆らうようになります。というのも,その赤ちゃんは,芽生えたばかりの,歓んで生きる気持ちが挫かれたと感じているように思うからです。
人格の響き・人格の感度の最大の分かれ道の時期に,素晴らしく成長する部位が安定するのは,生後13ヶ月〜16ヶ月です。心が乱れる避け難い原因は,1つの出来事ではなくて,その赤ちゃんの生き方を乱れさせるたくさんの変化が重なるからです。一歳過ぎの赤ちゃんが他と異なる特別な,唯一無二の成長期になるのは,その家族が新たな立場になる時です。おそらくは,一歳過ぎの赤ちゃんが,最初の言葉を繰り返し宿す様にならざるを得ないのは,最初の言葉を教えてくれたおばあちゃんが亡くなった時だったでしょう。お母さんが躓くと,お母さんが無力になるのは,この時期に思いがけず,妊娠し,その代わりに,赤ちゃんのためになることが出来なくなるからです。人生や人生の曲がり角に、正直で真っ直ぐに,現在進行形で元気をくれる魂が,聖書の神様から,与えられるならば,躓くようなことがあっても,手ずから解決出来るのが普通ですが,それは,必要とあらば,小児科医やその道に熟達した者の手を借りる場合もあります。しかし,体験から学んだ者の務めは,(ブランク・フレマント・スミスを引用しましたように)「その場に行くことが許され,本人もその場に行きたいと願う,生まれ変わる場を仕込むこと」であるはずです。
経験から,すなわち,十字架のような苦しみから学んだ者は,復活,と呼ばれる,心底から,腑から生まれ変わる場を体験的に知っているし,それは,向こう側からやって来ると同時に,自分からも行く場である事も分かっていますから,子どもがその場に行けるように,そして,創造が始まるように,陽気で楽しい雰囲気の中で,子どもとの関係を始めることになっています。