マハトマ・まど・みちおさんの言葉から
幸せ
というのは
心が穏やか
で
和やか
なとき
聖書の言葉 #1人豊か #自信がない私発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケー......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.31,最後の第5パラグラフから。その前もご一緒に。
逃げられないショック
トラウマストレスに関する,なかなか消すことができない問いに心ふさがれたまま,私は脳神経科学という新たな学問分野が,ある種の答えをくれるかもしれない,と考えるようになりまして,神経心理薬理学会(ACNP)の学会に参加し始めました。1984年,ACNPは,薬の開発に関して魅惑的な講演をたくさんしましたが,私が乗る予定のボストン行きの飛行機まで残り数時間になったとき,コロラド大学のスティーヴ・マイヤーのプレゼンを耳にしたんです。スティーヴ・マイヤーは,ペンシルベニア大のマーティン・セリグマンの共同研究者でした。マイヤーの題目は,動物の中にある,身に沁みた無力感でした。マイヤーとセリグマンは,檻に入れられた犬達に,痛い電気ショックを繰り返し与えました。マイヤー等は、この状態を「逃げ出せないショック」と呼びました。犬の愛好家なので,こんな実験は,私自身には出来なかったろうとは、分かりました。しかし、私が関心を持ったのは,こんな残酷な仕打ちがその動物達にどんな影響があるのか,ということです。
様々な電気ショックをやった後で,研究者等は檻の扉を開けて,その犬たちにまた電気ショックをお見舞いします。電気ショックをやられずにきたコントロール群の犬たちは,すぐに檻から逃げ出しましたが,逃げられない電気ショックをやられてきた犬たちは,扉が広々と開いていても,一度も逃げようとする素振りもしませんでした。― 逃げられないショックをやられた犬たちは,ただそこに寝て,クンクン鳴いて,ウンチをするだけでした。逃げられるチャンスがあるだけでは,トラウマを負わされた動物や人間を自由にしてくれません。マイヤーとセリグマンの犬たちみたいに,トラウマを負わされた人間は,あきらめている人が多いんです。新しい選択をリスクを冒してまで選択するよりも,体験したあの恐怖に取りつかれたままでいるんです。
私はマイヤーの説明に釘づけにされました。マイヤーらが犬にやったことは,トラウマを負わされた私の患者さん達に起こったことに他なりませんでしたから。トラウマを負わされた患者さん達も,オゾマシイ自己喪失という心の傷を押し付けて来た人(もの)から逃げらなかったんです。私は私が治療している患者さん達の心の状態を,ザッと再検討しました。ほとんど患者さんの全員が,何らかの点で,こだわりと動けないことがありましたし,逃げられないことから,逃げようとすることができませんでした。逃げる/戦うの反応が阻害された結果,患者さんたちは,動揺するか,くじけた気持ちになるか,していたんです。
マイヤーとセリグマンが発見したもう1つは,トラウマを負わされた犬たちは,ストレスホルモンを通常よりも大量に出している,ということでした。これでハッキリしたのが,トラウマストレスの生物的な基礎について学びだしていたことでした。若い研究者たち,エール大学のスティーヴ・サイスウィックとジョン・クリスタル,エルサレムのハダシャ医学校のアーリア・シャレフ,アメリカ精神保健省のフランク・バットナムとロジャー・ピットマン,彼はのちにハーヴード大学に移りましたが,この研究者らが発見したのは,トラウマを負わされた人は,実際の危険が過ぎ去った後でも,大量のストレスホルモンを出し続けている,ということでした。それから,ニューヨークのシナイ山病院のレイシェル・エフーダが私どもに突き付けた,一見すると矛盾する発見は,ストレスホルモンのコルチゾールの値が,PTSDでは,低いということでした。彼女が発見したことの意味がハッキリしたのは,ストレスホルモンのコルチゾールは,ストレス反応が終了したことをづけるもので,「もう大丈夫」というサインを送るものであることが分かった時でしたし,PTSDでは,身体内のストレスホルモンが,脅威が去った後も,通常のレベルに下がらない,ということが分かった時でもありましたね。
理想的に言えば,ストレスホルモンのシステムは,脅威に対するドンピシャの反応ですが,すぐにいつもの状態に戻ります。PTSDの患者さんでは,ストレスホルモンのシステムは壊れて,バランスが取れなくなります。戦うか,逃げるか,凍り付くかの信号が,危険が去った後も続いてしまいます。それは,犬の場合と同じで,PTSDの患者さんも,ストレスホルモンが標準レベルに戻りません。それどころか,PTSDの患者さんは,ストレスホルモンが出続けることが,どうして良いのか分からず,大人の言いなりになって右往左往したり,訳の分からない恐怖に襲われたりすることになり,長年,健康に非常に悪影響を与えることとなります。
その日に予定の飛行機に乗り遅れたのは,スティーヴ・マイヤーと話し合わなくてはならなかったからです。マイヤーのワークショップにおかげで,自分の患者さんたちの通奏低音となる様々な課題についてのヒントが与えられただけではなくて,その課題を解決してくれるかもしれないヒントも与えられたんです。たとえば,マイヤーとセリグマンが発見したのは,トラウマを負わされた犬たちに,電気ショックから逃げ出す方法を教える唯一の方法は,どうやったら逃げられるのかを身体が体感できるよう,檻の扉を開けて,檻から繰り返し引っ張り出す,ということでした。自分を守ることが1つもないことを根治するという明るい方向性によって,患者さんたちを助けることが,私たちもできるかもしれない,と思いましたね。私の患者さんたちも,腹から感じる体感を回復する「身体的な」体験をする必要性があったのか? とらわれて,動けずにいたトラウマと似た,怖い状況から,身体が逃げ出すことを教えるのには,何を教えたらいいんだろうか? この本の治療を扱う第5部で,再度議論する予定ですが,そこで行う議論は,今現在私が到達した結論の一つでしたね。
さらに動物実験を重ねて,ネズミ,大型のネズミ,ネコ,サル,ゾウの実験によって,さらに面白いデータを得ることができました。たとえば,研究者たちが,押しつけがましい大声を出すと,温もりのある,食べ物もたくさんある巣で育てられたネズミたちは,すぐに巣に小走りで帰ります。しかし,満足に食べ物もなく,騒々しい巣で育てられた,別のネズミたちも,巣に戻りますが,それは,もっと心地よい所で時間を過ごした後でも,変わりませんでした。
怯えた動物たちは,巣に戻ります,たとえ,その巣が安心できる所であるのか,ビクビクした所であるかに関係なく。私の患者さんで,大事にしてくれない家族とともに育ち,家に帰っても,心も身体もズタズタにされた人たちのことを,思い巡らせました。育つの中でトラウマを負わされた人たちは,馴染んだことに逃げ込むことを,非難されるのでしょうか? もしもそうならば,どんな理由から,また,可能ならば,安心できて,陽気で楽しい場や関わりにくっ付くことができるように,手助けできるんでしょうか?
トラウマ依存 :喜びの痛みと痛みの喜び
私の同僚のマーク・グリーンバーグと私が捉えたのは,私どもがベトナム帰還兵のセラピーグルーブを運営していた時のことですが,恐怖と悲しみを体験していながら,元気が戻ってきたのは,ヘリコプター事故や戦死した仲間たちの話をするようになった時だ,ということでした。(前のニューヨーク・タイムスの担当記者,クリス・ヘッジは,たくさんの残酷な戦いを表紙にしてきましたが,彼の本の題名が,『戦争こそ私どもに生きる意味を与える無二の力だ』でした。)トラウマを負わされた人々は,ほとんどの人間を跳ね返すような様々な体験を求めているように見えます。しかも,患者さんの多くがこぼすのは,なんとなく空しく,なんとなく退屈だというのは,無理強いされても怒らずにいたり,かなり危険な活動に関わっている時のことでした。
私の患者のジュリアは,銃を突きつけられて暴力的にホテルの部屋でレイプされたのが,16の時でした。そのすぐあと,ジュリアは,売春を斡旋する暴力的な男とかかわるようになり,売春をするようになりました。その男はいつもジュリアを殴りつけました。ジュリアは繰り返し売春の廉で刑務所に行きましたが,ジュリアはいつもそのポン引きのもとに舞い戻ってしまいました。結局,祖父母が介入して,ジュリアのリハビリの費用も支払いました。ジュリアは,入院治療をうまく終えて,受付として働くようになり,地方大学で履修生にもなりました。
打たれても,男のもとに舞い戻る。なんかおかしい。
でも,パラグライダーは,高いところから飛び降りるのですから,恐怖を味わうのが普通ですが,しかし,それになれますと,恐怖のはずの飛び降りも,喜びの源になりますでしょ。
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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.111,21行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
本物の大人になること と 日常生活を礼拝にする中で子どもを大切にすること
若者の見習い期間から「日常生活を焼き入れする礼拝をして,自由平等友愛の生き方を不動にした」後,「男女が一体になる儀式」によって,若い大人は「許し」を得て,新たな仲間になることができます。それは,1つの生き方を次の世代に伝える,ということです。宗教の日常生活を礼拝にする礼拝は,この点で,徹頭徹尾聖書の神様に従うことですし,自由に率直に話すことでもあります。しかし,大人が習慣にしている礼拝が,自分の文化で英雄,精霊達,神々,様々な王,創立者達,様々な決まりを超越する,あるいは,その上をいく,自分自身のお手本を求めるかどうかにかかわらず,その大人たちがまずしなくてはならないのは,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気なく日々やっている礼拝を,本気で心響くものに繰り返しして生きて,繰り返し不動にすることです。なぜならば,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気ない礼拝こそは,文化を1つに一体化させ,秩序を創造できるからです。何気ない日々の礼拝のおかげで,大人も価値ある自分を体感できます。というのも,誰もが抱く元気をもらいたいと願うニーズには,何気ない日々の礼拝を司式する者が,聖書の神様の命が一巡する中で,繰り返し心強く元気をもらうニーズも含まれているからです。何気ない日々の礼拝を司式する者は,隣にいる子どもの目から見て,驚き感激するヌミノースのモデルに歓んでなる,ということにドンピシャリですし,悪を裁き,目には見えないけれども,目標になる様々な大切なこと(訳注:それが目に見える形を取る,倫理と人間らしい習慣)を伝えるものとして,子どもに関わる,という点でもドンピシャリです。ですから,日常生活を礼拝にする大人の原理とは,「聖書の神様が創造する業に参加する」ということです。これには,親として,教師として,生産者として,治療者として,などの関わりも含まれます。1人の大人は,正式の人をよしと認めるマントをまとっているみたいに,「私は,自分がしていることを自覚しています」という確信の中で,繰り返し元気にされなくてはなりません。唯一無二の恐れぬ気持ちが盛り上がるのは,父親側においては,父なる聖書の神様,すべての王様たちを超越する方を,1人の親イメージとして,見通すことによってです。その親イメージとは,聖書の神様が私ども人間を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,聖書の神様が自分のしていることを,ハッキリと自覚していました。あるいは,創立者,預言者,偉人で,一つの新世界のイメージの始まりを,皆に知らせます。今は女性が新しい世界イメージを,私どもに見せつけていますが,父権的な権威が多くの苦しみを味わう時,まごうことなく明らかになってきたのは,男が女子どもを支配してきたことが,日々の礼拝で良しとされた権威に基づいていた,ということでしたでしょ。
日々の礼拝を司式する大人は,聖書の神様から,透明な力を得ることができるので,僕(しもべ)の形を取っても,現実には,その場の全てを聖書の神様が支配する介添え人として,働くことになっています。そして,透明な力は,その場の一体感を生み出して,陽気で楽しい雰囲気と,幸せな味わいを余韻として,ずっと残します。
を
よく知らない人は,僕が全体を支配している,と不思議に感じるものです。
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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.80の,第3パラグラフから。 その前も,ご一緒に。
生きる指針にした≪私≫が生きている実感に従って自ら関わりを始めること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すようになっているから,≪私≫が生きている実感を出してはダメだぁと自分をいつも責める気持ち
≪私≫が生きている実感を生きる指針にするという目の前にある自分の壁から,腑に落ちる自分らしい不動の生き方に気付きますと,4歳5歳のその子どもは,次の舞台に直面します。次の舞台は次の分かれ道でもあります。自分が一個の人間として「生きている」ことを確信したので,次は,自分はどんなに心から優しい人になれるのかを見つける番です。そして,ここで,自分の生き方を,他ならない一番星に結びつけます。その子は,お父さんお母さんみたいに,とても強くて,とても美しくなりたいと願います。ただし,お父さんお母さんは,時には全く納得できないほど傷つけることもあるけれども。その子は,「お父さんお母さんと一心同体になります」し,神様の心から優しい御心がお父さんお母さんにとって,どんな意味があるのか,という物の見方と遊ぶのです。3つの力強い発達が,この4歳5歳の舞台では,子どもを自分の分かれ道に近づくのに,助けになりますし,役立ちます。(1)その子どもは,自由に,しかも,力強く「(聖書の神様の命が)ぐるっと一巡する」ことを身に付ける様になりますから,ずっと大きくて,その子にとっては,無限に光り輝く目標を立てることも身に付けます。(2)その子の「舌」で感じる体感は,自分が分かるところと,よく分からないたくさんのことを質問できるところとにピタッと手が届きます。そして,(3)おしゃべりしたり,動き回ったりできるから,自分がビックリせざるをえないたくさんのことが,「いろいろとイメージを抱いて,こうかな,ああかな,としているうちに」,自分が夢見てきたことや思い付いてきたこととピタッと一体にすることができます。それにもかかわらず,これら全てから,その子は,「決して打ち砕かれることなど出来ない不動の,自ら歓んで快く関わり出す関わり」を,互いに大切にし合いながらも,同時に,独立自尊でも居られる,気高くも,実感のある心の習慣のための,たった1つの岩盤にして,育つことになります。
こう申し上げますと,ここで問いたくなる御仁もおいでになるかもしれませんね。「私が生きている実感に従って,快く歓んで関わりを始める,決して壊されることのない心の習慣ができた,ということの判断基準は,いったい何でしょう?」と。ここでお話ししている全ての心の習慣に当てはまる,その判断基準と,同じです。1つの分かれ道は,様々な恐れ,すなわち,創造することに伴う不安と緊張が少なくとも伴いながら,自分自身がいっそう自由に繰り返しなれる,と見なされることです。というのも,その子は心も身体もやり取りができるほど「親らと共に育つ」と見なされるからです。その子は「いっそう自分らしく」なったように見えますし,いっそう愛らしく,いっそう自由にゆったりと構えて,自分の判断がいっそう賢くなっているように見えます(こういったことが,4歳5歳の舞台になります)。ほとんどの者は,以前のように,自分から関わりを始めるものです。その子はかなり過剰なエネルギーを歓んで手に入れていますから,失敗はすぐに忘れ,ほしいと思ったものは(多少のリスクがあっても)相変わらず,より善い目標がハッキリと見定めた努力によって,手に入れようとします。自ら関わりを始める道で,その子も親も,上手に次の別れ道に直面できます。
私どもは,2歳の終わりに近づいています。その時期に,歩くのは容易なこととなり,あるいは,力強いものになります。拙著によれば,1人の子どもは「歩くことができる」のは,ずっと前のことです。しかしながら,人品が発達する視点からは,1人の子どもが1人で人生を歩むためには,2人3人の助けを借りて,短期間の内に,大なり小なり,あの神様の命が一巡する,互いに大切にし合う,あの聖書の神様が統べ給う場を,満ち満ちたものにしなくてはなりません。2歳の子どもは,自分が主人公でいられる時空で,自分の化身になる1つの玩具を歩かせますし,走らせますが,それは,その子が「心の中に」気高い自分を感じている時ですし,自分がその玩具を歩かせていることは忘れて,その代わりに「自分の化身である玩具と共に」できることを発見できる時なんです。互いに大切にし合う場で自分を発見できて初めて,2歳の子の両脚は,自分が無意識に動かせるものになるわけで,外側にある,まだまだ当てにならない歩く部品になるんじゃあないんですね。互いに大切にし合う場で自分を発見して初めて,2歳の子は,自分が「今できそうな」ことを,自分が「今できると分かっている」ことに加えて,素晴らしい心眼で,発見するようになります。
振り返ってみることにしましょう。最初の通過点は,ホッとすることでしたね。あの聖書の神様を信頼する信頼は,息,消化,眠り,などの生きていく上で欠かせない働きが,与えられる食べ物や元気が,一貫していて,馴染みあるものになるように,(訳注:聖書の神様の命が)回っている経験に基づいているものですから,赤ちゃんが生きている実感が,まず自分の居場所をシッカリと体感し,その次に立ち上がることができるようになる,自由になる力に,人品の芳香を添えることになります。第2通過点は(2歳になってはじめて,通過できるものです),自分の居場所で安心していられる通過点であるだけではなくて,いわば,1つの素晴らしい業績です。この素晴らしい業績のおかげで,2歳3歳になる赤ちゃんは,選び取ったり,手放したり,あるいは,積み上げたり,上手にかわ(躱)したりすることを,よりハッキリと見極めるために,あるいは,よりハッキリと生きている実感に従って生きるために,次第に筋肉が使えるようになります。
第3通過点は,その4歳5歳の子どもは,人に頼らず元気に関わりを始めることができるようになる,ということによって,分かります。4歳5歳の子どもは,自由平等友愛を陽気に楽しんで生きている大人と同じように,自分は偉大だ,とみなすようになります。4歳5歳の子どもは,創造の大小の違い,特に男女の性差を比較し始めますし,あくなき好奇心を育てがちです。4歳5歳の子どもは,将来自分でもできそうな,聖書の神様の命が一巡する様々な役割をシッカリと一纏めにして納得しようとしますし,とにもかくにも,どんな役割が真似するに値するのかを見て分かろうとします。ど真ん中を空にすればするほど,4歳5歳の子どもは,聖書の神様の命が一巡する役割を,自分自身が生きている実感という生命力と1つにすることができます。目上に子どもの導きや特別に素敵な女性の導きがあれば,4歳5歳の子どもは,次第に,幼稚園,街角,内庭での,子どもの政治に入っていきます。4歳5歳の子どもの体感して分かることは,大いに遠慮などせずに,人に自分から関わり,元気でいることです。遠慮せずに人と自分から関わり,元気でいられるからこそ,その子どもは,自分の限界を超えて,将来の様々な可能性を開いていけるわけです。
この「遠慮(忖度)せずに自分から人に関わる生き方」は,この舞台の主の生き方の特色は,「1つの」様々な関わり方と様々な空想がある,ということです。この「遠慮(忖度)しない関わり方」には,身体をぶつけて,人の身体の中に,入り込むことも含まれます。すなわち,遠慮せずに話すことによって,人の耳と心に入り込みます。元気に動き回って,時空に遠慮(忖度)せずに,突っ込んで生きますし,あくなき好奇心で,未知な人や物事に,関わって生きます。「外の人や物事を仲間に入れる生き方」も,女の子にも男の子にも,創造されるように見えるのは,自分が,鷹揚で心から優しい聖書の神様やお母さんと一心同体になる経験の中です。
この舞台は,子どもが性差に関心を持ち,創造することへの内的促しを体感し,性差を生み出すものに夢中になり,関心を持ちすぎることもある舞台です。この「創造性」とは,もちろん,土台部分ですから,来るべき様々なものを約束する約束でしかありません。しかも,「創造性」であるとは,気づかれないのが普通です。特にこと細かく,ピンポイントで,様々なことを禁じることによって(「触ったら,チンチン,チョッキンだからね」),あるいは,特定の様々な習慣によって(たとえば,女の子グルーブと男の子グルーブに分かれて,イチャツク遊び),早すぎる手遊びを呼び起こさないようにするのならば,そこで体験するのは,一連の心魅せられる体験にほかなりません。この心魅せられる体験こそが,人間の持ち味の魁になります。この人間の持ち味の魁のことを,フロイトは,「封印」の時期と呼びましたが,それは,子どもの頃に性差が分かること(動物では子どものころに性差が分かるとすぐに性的に成熟しますでしょ)から大きく遅れて,身体が性的に成熟する,ということです。
4歳5歳の子ども等が,心魅せられることに価値を感じることが,人の持ち味を形作るんですし,創造性への芽生えらしい。