マハトマ・まど・みちおさんの言葉から
豊かになりますよ
世の中は。
#内省する心豊かな毎日 #不安でたまらず組織の中で妥協して生きる毎日 #神の顔であるキリスト #顔の不思議な力 #2人の顔に泥塗る西平直訳発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.32,第4パラグラフから。その前もご一緒に。
トラウマ依存 :喜びの痛みと痛みの喜び
私の同僚のマーク・グリーンバーグと私が捉えたのは,私どもがベトナム帰還兵のセラピーグルーブを運営していた時のことですが,恐怖と悲しみを体験していながら,元気が戻ってきたのは,ヘリコプター事故や戦死した仲間たちの話をするようになった時だ,ということでした。(前のニューヨーク・タイムスの担当記者,クリス・ヘッジは,たくさんの残酷な戦いを表紙にしてきましたが,彼の本の題名が,『戦争こそ私どもに生きる意味を与える無二の力だ』でした。)トラウマを負わされた人々は,ほとんどの人間を跳ね返すような様々な体験を求めているように見えます。しかも,患者さんの多くがこぼすのは,なんとなく空しく,なんとなく退屈だというのは,無理強いされても怒らずにいたり,かなり危険な活動に関わっている時のことでした。
私の患者のジュリアは,銃を突きつけられて暴力的にホテルの部屋でレイプされたのが,16の時でした。そのすぐあと,ジュリアは,売春を斡旋する暴力的な男とかかわるようになり,売春をするようになりました。その男はいつもジュリアを殴りつけました。ジュリアは繰り返し売春の廉で刑務所に行きましたが,ジュリアはいつもそのポン引きのもとに舞い戻ってしまいました。結局,祖父母が介入して,ジュリアのリハビリの費用も支払いました。ジュリアは,入院治療をうまく終えて,受付として働くようになり,地方大学で履修生にもなりました。社会学の授業で,売春婦たちが自由になる可能性について学期末レポートを書きました。それは,たくさんの有名な売春婦たちの回想録をジュリアは読んでいたんです。ジュリアは別の履修は次第に落としてきました。クラスの友達との短い関係も,あっという間に,辛いものになりました。その男友達は,ジュリアがメソメソ泣くのに辟易して,ジュリアは,彼のボクサーシューズで蹴られて追っ払われました。ジュリアは地下鉄で1人の依存症患者と出会って,その男もジュリアを殴り,付け回すようになりました。ジュリアがとうとう治療に戻ったのは,また,激しく殴られるようになった時でした。
フロイトは,このようにトラウマが繰り返し起こることのために,1つの言葉を使いました。それは「強迫的な繰り返し」です。フロイトとフロイト派の人々は,トラウマを繰り返すのは,痛みのある状況を無意識にコントロールしようとする試みであり,その試みによって,つらい過去は克服し,解決に導くものだ,と信じていました。この理論には証拠は一つもありませんでした。実際には,トラウマを繰り返すことは,痛みと自己嫌悪が増すばかりです。現実には,セラピーの中でトラウマを繰り返すことさえ,トラウマに心奪われ,トラウマが固定化させることになります。
マーク・グリーンバーグと私は,人を引き付けるものについて,もっと学ぶことにしました。人を引き付けるものとは,私どもが動機を得て,生き生きと生きている感じももたらしてくれるものです。一般には,人を引き付けるものによって,私どもは,気分がよくなります。それじゃぁ,なぜ,危険な状況,痛みに満ちた状況に心惹かれる人が多いんでしょうか? 私どもが最後にたどり着いた1つの研究は,恐怖や痛みの元になる活動は,しまいには,スリルを感じる経験になりうる,と説明する研究でした。1970年代に,ペンシルベニア大のリチャード・ソロモンがハッキリと示したことは,身体は,あらゆる刺激に適応する,ということでした。脱法ドラックの中毒になりやすいのは,脱法ドラックによって,人は気分が良くなるからですが,サウナ浴,マラソン,パラシュート降下,みたいないろんな活動が,最初は不快で,オッカナイことであっても,結局は愉しみになるものです。徐々に馴染むことが示していることは,新たな化学的なバランスが身体の中でできると,たとえば,マラソンを走ると,身体を限界まで追い込んでも,幸せで,陽気で楽しい気分になれるようになります。
この点で,薬物依存になるみたいに,最初は不快でオッカナイ活動を望むようになり,それが得られないと,しり込みするようになります。長期的に見ますと,活動そのものよりも,尻込みする痛みに,心奪われてしまいやすいものです。この理論の助けで,自分をぶったり,タバコの火を押し付けたりする人を雇い,自分を傷つける人にしか魅力を感じない人がいるわけが分かりました。恐怖と嫌悪は,ねじ曲がった道で,喜びに変わりうるものなんです。
発達トラウマ障害が生きざるを得なかった,このねじ曲がった道を,真っ直ぐな道,正常に発達する道に戻すことを手助けするのが,私どもサイコセラピストのお務めです。
#顔と顔を見つめ合う赤ちゃんとお母さんの大きな恵み #恵みから毀れた時の呪い発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケー......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.112,第2パラグラフ,6行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
本物の大人になること と 日常生活を礼拝にする中で子どもを大切にすること
若者の見習い期間から「日常生活を焼き入れする礼拝をして,自由平等友愛の生き方を不動にした」後,「男女が一体になる儀式」によって,若い大人は「許し」を得て,新たな仲間になることができます。それは,1つの生き方を次の世代に伝える,ということです。宗教の日常生活を礼拝にする礼拝は,この点で,徹頭徹尾聖書の神様に従うことですし,自由に率直に話すことでもあります。しかし,大人が習慣にしている礼拝が,自分の文化で英雄,精霊達,神々,様々な王,創立者達,様々な決まりを超越する,あるいは,その上をいく,自分自身のお手本を求めるかどうかにかかわらず,その大人たちがまずしなくてはならないのは,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気なく日々やっている礼拝を,本気で心響くものに繰り返しして生きて,繰り返し不動にすることです。なぜならば,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気ない礼拝こそは,文化を1つに一体化させ,秩序を創造できるからです。何気ない日々の礼拝のおかげで,大人も価値ある自分を体感できます。というのも,誰もが抱く元気をもらいたいと願うニーズには,何気ない日々の礼拝を司式する者が,聖書の神様の命が一巡する中で,繰り返し心強く元気をもらうニーズも含まれているからです。何気ない日々の礼拝を司式する者は,隣にいる子どもの目から見て,驚き感激するヌミノースのモデルに歓んでなる,ということにドンピシャリですし,悪を裁き,目には見えないけれども,目標になる様々な大切なこと(訳注:それが目に見える形を取る,倫理と人間らしい習慣)を伝えるものとして,子どもに関わる,という点でもドンピシャリです。ですから,日常生活を礼拝にする大人の原理とは,「聖書の神様が創造する業に参加する」ということです。これには,親として,教師として,生産者として,治療者として,などの関わりも含まれます。1人の大人は,正式の人をよしと認めるマントをまとっているみたいに,「私は,自分がしていることを自覚しています」という確信の中で,繰り返し元気にされなくてはなりません。唯一無二の恐れぬ気持ちが盛り上がるのは,父親側においては,父なる聖書の神様,すべての王様たちを超越する方を,1人の親イメージとして,見通すことによってです。その親イメージとは,聖書の神様が私ども人間を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,聖書の神様が自分のしていることを,ハッキリと自覚していました。あるいは,創立者,預言者,偉人で,一つの新世界のイメージの始まりを,皆に知らせます。今は女性が新しい世界イメージを,私どもに見せつけていますが,父権的な権威が多くの苦しみを味わう時,まごうことなく明らかになってきたのは,男が女子どもを支配してきたことが,日々の礼拝で良しとされた権威に基づいていた,ということでしたでしょ。すべての権威の中に必ずある弱い者いじめをする点で見るとき,創造的な,日常生活を礼拝にする礼拝の対になる,形ばかりの礼拝の特別な形が,自分が権威を征服し,誤って権威を奪い取った者の,形ばかりの礼拝です。お望みならば,「権威主義」と呼んでもいいでしょう。しかし,ここで,私どもは,これまで述べてきた日常生活を礼拝にする礼拝や,実際の日々の様々な礼拝の中で,大人の割り当てに近づきます。これは触れなくてはならないテーマですが,ここでは触れません。
しかしながら,「古老の賢慮」に関する1つの言葉は,日々の礼拝の中で,聖書の神様の命を一巡します。日常生活を礼拝にする礼拝のお勤めは,「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」だと思いますよ。この「シャローム」こそが,聖書の神様の命が一巡する大切さを不動にします。私がいつもウィリアム・ブレークの詩を味わう度に,ブレークが示しているのは,古老の賢慮は,一番上手くいけば,陽気で楽しい子どもらしさによって,(繰り返し)血が通ったものとなり,聖書の神様の命が充満する恵みに,恵まれる,ということですね。古老が伝統的に果たしてきた,日常生活を礼拝にする英知を体現する役回りは,古老の賢慮が,陽気で楽しい子どもらしさの中で,血の通ったものとなり,聖書の神様の命が充満する恵みを実現するものでしょう。しかし,現代の生き方は,多くの人の生き方を見てみると,不動で特別な人はごくわずかだと気づかされる経験しますから,ウィリアム・ブレークは,もしかしたら,古老の賢慮は,子ども騙しのチャチナおもちゃでしかない,ということを言いたかったのかもしれない,と訝しく思うほどです。古老になる前の数年,絶望と自己嫌悪を体験しつつ,私が,聖書の神様に誓って申し上げてきたのは,ウソとゴマカシのない正直な「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」の強さです。その「シャローム」を子どもたちは直に受け止めます。
「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」は,何か抽象的なことと誤解する人も少なくありません。
「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」は,非常に具体的,体感的,実際的,日常的なものなんです。それは,スピリット,気配であると同時に,日々の習慣,振る舞い方でもありますから,子どもでも,小鳥でも,犬でも,それとすぐに気づきます。
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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.81の第2パラグラフ,5行目途中から。 その前も,ご一緒に。
生きる指針にした≪私≫が生きている実感に従って自ら関わりを始めること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すようになっているから,≪私≫が生きている実感を出してはダメだぁと自分をいつも責める気持ち
≪私≫が生きている実感を生きる指針にするという目の前にある自分の壁から,腑に落ちる自分らしい不動の生き方に気付きますと,4歳5歳のその子どもは,次の舞台に直面します。次の舞台は次の分かれ道でもあります。自分が一個の人間として「生きている」ことを確信したので,次は,自分はどんなに心から優しい人になれるのかを見つける番です。そして,ここで,自分の生き方を,他ならない一番星に結びつけます。その子は,お父さんお母さんみたいに,とても強くて,とても美しくなりたいと願います。ただし,お父さんお母さんは,時には全く納得できないほど傷つけることもあるけれども。その子は,「お父さんお母さんと一心同体になります」し,神様の心から優しい御心がお父さんお母さんにとって,どんな意味があるのか,という物の見方と遊ぶのです。3つの力強い発達が,この4歳5歳の舞台では,子どもを自分の分かれ道に近づくのに,助けになりますし,役立ちます。(1)その子どもは,自由に,しかも,力強く「(聖書の神様の命が)ぐるっと一巡する」ことを身に付ける様になりますから,ずっと大きくて,その子にとっては,無限に光り輝く目標を立てることも身に付けます。(2)その子の「舌」で感じる体感は,自分が分かるところと,よく分からないたくさんのことを質問できるところとにピタッと手が届きます。そして,(3)おしゃべりしたり,動き回ったりできるから,自分がビックリせざるをえないたくさんのことが,「いろいろとイメージを抱いて,こうかな,ああかな,としているうちに」,自分が夢見てきたことや思い付いてきたこととピタッと一体にすることができます。それにもかかわらず,これら全てから,その子は,「決して打ち砕かれることなど出来ない不動の,自ら歓んで快く関わり出す関わり」を,互いに大切にし合いながらも,同時に,独立自尊でも居られる,気高くも,実感のある心の習慣のための,たった1つの岩盤にして,育つことになります。
こう申し上げますと,ここで問いたくなる御仁もおいでになるかもしれませんね。「私が生きている実感に従って,快く歓んで関わりを始める,決して壊されることのない心の習慣ができた,ということの判断基準は,いったい何でしょう?」と。ここでお話ししている全ての心の習慣に当てはまる,その判断基準と,同じです。1つの分かれ道は,様々な恐れ,すなわち,創造することに伴う不安と緊張が少なくとも伴いながら,自分自身がいっそう自由に繰り返しなれる,と見なされることです。というのも,その子は心も身体もやり取りができるほど「親らと共に育つ」と見なされるからです。その子は「いっそう自分らしく」なったように見えますし,いっそう愛らしく,いっそう自由にゆったりと構えて,自分の判断がいっそう賢くなっているように見えます(こういったことが,4歳5歳の舞台になります)。ほとんどの者は,以前のように,自分から関わりを始めるものです。その子はかなり過剰なエネルギーを歓んで手に入れていますから,失敗はすぐに忘れ,ほしいと思ったものは(多少のリスクがあっても)相変わらず,より善い目標がハッキリと見定めた努力によって,手に入れようとします。自ら関わりを始める道で,その子も親も,上手に次の別れ道に直面できます。
私どもは,2歳の終わりに近づいています。その時期に,歩くのは容易なこととなり,あるいは,力強いものになります。拙著によれば,1人の子どもは「歩くことができる」のは,ずっと前のことです。しかしながら,人品が発達する視点からは,1人の子どもが1人で人生を歩むためには,2人3人の助けを借りて,短期間の内に,大なり小なり,あの神様の命が一巡する,互いに大切にし合う,あの聖書の神様が統べ給う場を,満ち満ちたものにしなくてはなりません。2歳の子どもは,自分が主人公でいられる時空で,自分の化身になる1つの玩具を歩かせますし,走らせますが,それは,その子が「心の中に」気高い自分を感じている時ですし,自分がその玩具を歩かせていることは忘れて,その代わりに「自分の化身である玩具と共に」できることを発見できる時なんです。互いに大切にし合う場で自分を発見できて初めて,2歳の子の両脚は,自分が無意識に動かせるものになるわけで,外側にある,まだまだ当てにならない歩く部品になるんじゃあないんですね。互いに大切にし合う場で自分を発見して初めて,2歳の子は,自分が「今できそうな」ことを,自分が「今できると分かっている」ことに加えて,素晴らしい心眼で,発見するようになります。
振り返ってみることにしましょう。最初の通過点は,ホッとすることでしたね。あの聖書の神様を信頼する信頼は,息,消化,眠り,などの生きていく上で欠かせない働きが,与えられる食べ物や元気が,一貫していて,馴染みあるものになるように,(訳注:聖書の神様の命が)回っている経験に基づいているものですから,赤ちゃんが生きている実感が,まず自分の居場所をシッカリと体感し,その次に立ち上がることができるようになる,自由になる力に,人品の芳香を添えることになります。第2通過点は(2歳になってはじめて,通過できるものです),自分の居場所で安心していられる通過点であるだけではなくて,いわば,1つの素晴らしい業績です。この素晴らしい業績のおかげで,2歳3歳になる赤ちゃんは,選び取ったり,手放したり,あるいは,積み上げたり,上手にかわ(躱)したりすることを,よりハッキリと見極めるために,あるいは,よりハッキリと生きている実感に従って生きるために,次第に筋肉が使えるようになります。
第3通過点は,その4歳5歳の子どもは,人に頼らず元気に関わりを始めることができるようになる,ということによって,分かります。4歳5歳の子どもは,自由平等友愛を陽気に楽しんで生きている大人と同じように,自分は偉大だ,とみなすようになります。4歳5歳の子どもは,創造の大小の違い,特に男女の性差を比較し始めますし,あくなき好奇心を育てがちです。4歳5歳の子どもは,将来自分でもできそうな,聖書の神様の命が一巡する様々な役割をシッカリと一纏めにして納得しようとしますし,とにもかくにも,どんな役割が真似するに値するのかを見て分かろうとします。ど真ん中を空にすればするほど,4歳5歳の子どもは,聖書の神様の命が一巡する役割を,自分自身が生きている実感という生命力と1つにすることができます。目上に子どもの導きや特別に素敵な女性の導きがあれば,4歳5歳の子どもは,次第に,幼稚園,街角,内庭での,子どもの政治に入っていきます。4歳5歳の子どもの体感して分かることは,大いに遠慮などせずに,人に自分から関わり,元気でいることです。遠慮せずに人と自分から関わり,元気でいられるからこそ,その子どもは,自分の限界を超えて,将来の様々な可能性を開いていけるわけです。
この「遠慮(忖度)せずに自分から人に関わる生き方」は,この舞台の主の生き方の特色は,「1つの」様々な関わり方と様々な空想がある,ということです。この「遠慮(忖度)しない関わり方」には,身体をぶつけて,人の身体の中に,入り込むことも含まれます。すなわち,遠慮せずに話すことによって,人の耳と心に入り込みます。元気に動き回って,時空に遠慮(忖度)せずに,突っ込んで生きますし,あくなき好奇心で,未知な人や物事に,関わって生きます。「外の人や物事を仲間に入れる生き方」も,女の子にも男の子にも,創造されるように見えるのは,自分が,鷹揚で心から優しい聖書の神様やお母さんと一心同体になる経験の中です。
この舞台は,子どもが性差に関心を持ち,創造することへの内的促しを体感し,性差を生み出すものに夢中になり,関心を持ちすぎることもある舞台です。この「創造性」とは,もちろん,土台部分ですから,来るべき様々なものを約束する約束でしかありません。しかも,「創造性」であるとは,気づかれないのが普通です。特にこと細かく,ピンポイントで,様々なことを禁じることによって(「触ったら,チンチン,チョッキンだからね」),あるいは,特定の様々な習慣によって(たとえば,女の子グルーブと男の子グルーブに分かれて,イチャツク遊び),早すぎる手遊びを呼び起こさないようにするのならば,そこで体験するのは,一連の心魅せられる体験にほかなりません。この心魅せられる体験こそが,人間の持ち味の魁になります。この人間の持ち味の魁のことを,フロイトは,「封印」の時期と呼びましたが,それは,子どもの頃に性差が分かること(動物では子どものころに性差が分かるとすぐに性的に成熟しますでしょ)から大きく遅れて,身体が性的に成熟する,ということです。
この少年の性差の向きは,創造力,創造への内的促し,目的,意味に焦点付けされます。真っすぐ立つことが早々と起こる(柔軟に,あるいは,子どもが強烈に感じ取ることになる物や人に反応して)一方で,家族のみんなの関心が育っていくのは,女の子,男の子の創造性の中ですし,女の子らしい,あるいは,男の子らしい,陽気で楽しい関わりをしたいと願う気持ちの中であったり,あるいは,少なくとも,女の子らしさ,あるいは,男の子らしさを生み出す心の軌跡を辿る中なんです。次第に一つの場から別の場に移ることができるようになる4歳5歳の子どもは,いまここで偉大であることの中で,自分が主人公であることや誇りを感じますし,お父さんお母さんみたいに,「ほとんど」ピッタリくるほど,創造性の点で大きく劣っている,というわかりやすい事実の中で,一番重い逆回転を受けます。次第に一つの場から別の場に移ることができるようになる4歳5歳の子どもは,また,もう1つの逆回転も受け止めます。そう遠くない将来,お母さんと性的な関係を取るお父さんに自分はなるんだ,あるいは,お父さんと性的な関係をとるお母さんに自分はなるんだ,という事実の中で。この気づきと,この気付きに伴う不思議を畏れる畏れから生まれる最深欲求から,フロイトさんがいう「エディプス・コンプレックス」が生じてきます。
精神分析が大切にしている,ウソとゴマカシが一つもない正直な結論は,少年たちは,お母さんみたいな大人に,創造の場で最初に一体になりたいという願う願いを,くっ付ける,ということです。そのお母さんみたいな大人は,子どもの身体に元気をプレゼントしてくれます。精神分析が大切にしている,ウソとゴマカシのない正直な結論は,また,少年たちは,その母親みたいな大人の性の相手である人と,母親の取り合いをする仲間に育つ,ということです。小さな女の子は,聖書の神様の命が一巡する中では,自分のお父さんや,他の大切な男性に,くっつけて,お母さんにやきもちを焼くようになるのは,お母さんを心配させるかもしれない発達です。というのも,小さな女の子が,お母さんを心配させる発達をしますと,自分にピッタリ同じなお母さんに後ずさりしなくなるからですし,そうなれば,お母さんは,無意識に「天のお父様に,そして,この世のお父さんに相応しい」と感じられるから,とても魅力的で生意気だ,と言って,非難しますから。
4歳5歳の女の子は,女の子らしさがかわいらしく,愛らしいものですが,それが,お母さんにとっては,嬉しいようで,不安と非難の源になる,というのは,実に深い気付きだ,と言えましょう。