「発達トラウマ障害 Enpedia」
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生きているのに
死んでいるあなたへ
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
いること
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#トラウマ体験 #逃げられない怖さの体験 #人質の生き方#トラウマを生きる:#宇宙人 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→14307......
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
June 06 ,2019,横浜の心理臨床学会で,Perezさんのお話を聴いた関係です。
今朝は,p.99の,第5パラグラフ,2行目から。
自分が生きている実感と,その実感に従って生きることを神経学的に研究したことから,私の友人の,ピーター・レヴィンとパット・オーデンが開発した体感療法がとても人の役に立ちことが分かりました。…そのエッセンスは,次の3つです。
1)トラウマが邪魔して,氷漬けにしている体感を引き出すこと
2)体感が自分を突き動かす力,と患者さんが仲良くなれるように手助けすること
3)自分を守るために引っ込めた身体の関わりが,「できた」にすること その引っ込めた身体の関わりは,おっかなくて,閉じ込められ,押さえつけられ,動けないようにさせられた時にできなかった関わりなんです。
腑に落ちる気持ちは,安心,命が続いていること,あるいは,脅かされていることのシグナルです,たとえ,どうしてそうなるのかわからない場合でも。私どもが心身の中で感じていることは,私どもの身体が望んでいることに関する微妙なシグナルを,常時送っています。腑に落ちる感じが役に立つのは,自分の周りの,いまここで起きていることを,適格にと評価してくれることです。腑に落ちる感じは,いま近づいてくる男は気味悪いぞ,と警告してくれますが,勿忘草がいっぱい咲く西向きの部屋のおかげで,落ち着いた気分になっている,ということも,教えてくれます。腑に落ちる感じは,的確なことを教えてくれると信頼すること,なんですし,自分の身体,自分の気持ち,ウソのない自分を生きることは,自分に任されていること,なんですから。
ところが,トラウマを負わされた人たちは,いつも身体の中に,シックリ来ないところがあるのが常です。過去はいつまでも生きていて,身体の中が不快に感じる,という形で蘇ります。トラウマを負わされた人たちの身体は,腹から突き上げる「危ない」と告げる様々なサインのために,苦しい思いをさせられるのが常になりますし,自分の中で起きていることをコントロールしようとして,腑に落ちる感じを,見て見ぬふりをするプロになってしまいますし,自分の実感を態度で示す意識がゼロになります。トラウマを負わされた人達って,本音を隠す(訳注:ようになり,忖度して生きる)ようになりますからね。
腑に落ちる感じが様々に警告する感覚を,押しのけ,無視しようとすればするほど,腑に落ちる感じから来る様々な警告の感覚のために,困惑し,混乱し,自分はダメダァと恥を深めることになります。身体の中で現在進行形で起きていることを,心地よく感じられない人達は,五感の変化に対して無力ですから,無感覚になるか,狼狽え怖がるのか,のいずれかのやり方で,対処するようになります。体感を押し殺す人たちは,恐れそのものを恐れるようになってしまいます。
恐れ戦く症状がいつまでも続くのは,パニック発作に伴う様々な体感を恐れる恐れを,主として,その人がいろんな場面で展開するようになるからです。パニック発作の引き金になるのは,ご当人も,理屈に合わないとは知っていても,体感がおっかないために,身体中が総毛立つ迄恐怖が高じてしまうんです。「ゾッとする」,「怖くて凍り付く」(落ち込んだり,何にも感じなくなったりすること共に)は,恐怖とトラウマがどう感じるかを正確に示しています。「ゾッとする」,「怖くて凍り付く」というのは,腹の底から感じる気持ちです。オッカナイ気持ちを感じると,何処にも逃げ場がない恐れに対する本能的な反応です。腹の底から感じる気持ち,本音が変わらない限り,恐怖の虜になります。
体感という身体からのシグナルを無視したり,歪めたりしたら,その代価は,自分に危険なことや自分を傷つけることとに気を配ることができなくなりますし,同じくらい悪いことに,安心できることや自分を元気にしてくれることにも,気を配ることもできなくなります。自分と折り合いをつける,ってことは,自分の身体と仲良しになることなんですからね。自分の身体と仲良くできませんと,外側から自分を真っすぐにするものに頼る依存症になります。薬,お酒などの薬物の依存症や,いつも人に同意を求めたり,忖度したりする依存症です
私の患者さんたちは,体感に気付き,名付けるのではなくて,偏頭痛や喘息発作にることで,ストレスに応答するようになる場合が,多いんですから。サンディーは,中年の訪問支援員でしたが,私に教えてくれたことは,子どものころは,オッカナクて,独りぼっちだった,ということでした。アルコール依存症の両親が,サンディーの面倒を見なかったんですから。サンディーは,このオッカナイ気持ちと独りぼっちを感じる気持ちを,自分が依存する相手(セラピストの私も,含まれます)皆に,敬意を払うことで,対処してたんです。
頼る人に敬意を払う。なんか当たり前ですね。
文化を超えて,様々な地域にありそう。ニッポンだけじゃないみたい。
それでも,発達トラウマ障害の人は,依存症,特に対人関係依存症になりなすく,共依存の自己愛村の住民,= ニッポン人 がなりやすいことを示している,と考えるべきでしょう。
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不思議な導きの中にある,まとめ学習の都合により,Insight and Responsibility 『キリストと共に見る心眼=善い良心があると,子どもに応答できる』の、p.116,最後から。今朝は,p.119の,第2パラグラフ,7行目から。
大文字の希望が当てになると信頼できる唯一の条件は,母子が一心同体体験をすることだけです。その母子一心同体体験は,聖書の神様の全体像を体現した赤ちゃんが「記憶に残る前」の時代,すなわち,言葉を話せない時,話し言葉による記憶のない時分の,分裂していた母子2人の実験が一心同体になることによって,はじめて実現します。心から自由にされて善かったと語って自分を育ててくれるスピリットは,自分のたった1人の「お母さん」が心から安心できる人だなぁと顔と顔をシッカリと見合わせて,腹の底から仲良くなって,一心同体になることが,育ちの中で一番大事だとみなします。スピリットが語る言葉を生きる者は,赤ちゃんがお母さんと腹の底から仲良くなり一心同体になることが,育ちの中で一番大事だと言ったことによって,あの「対体験をする者が育つ場」がプレゼントしてくれる,「ギフトとしての自由な私」(「生きるはキリスト」)を体得底で,完全に知ることができるんだ,と言っているんです。他方で,心から自由になって善かったと思える者たちは,最初に心から大事にしてくれる1人のお母さんの重要性について,自由に訴えていますが,最初に心から大事にしてくれる,その1人のお母さんとは,手塩にかけて大事にしてくれる人は,心響かせピッタリ身体を合わせてくれる人かどうか実験して,一心同体体験は,なるほどホントだなぁ(アーメン),と腑に落ちる体験です。その一心同体体験実験をアーメンにしてくれるお母さんは,赤ちゃんの,お腹がすいたり傷んだりした身体と辛く悲しい気持ちを,赤ちゃんが期待している通りに,いつも繰り返し振り返ってくれますし,いつも自分を赤ちゃんより小さくして,赤ちゃんのために働きますから,赤ちゃんの心の中に,自分は値打ちものだという信頼を吹き込むことができます。アーメンお母さんは赤ちゃんと眼と眼を見合わせて,赤ちゃんから心から仲良くされて一心同体にしてもらえるのは,アーメンお母さんが眼と眼を見合わせて赤ちゃんと仲良しになり,一心同体だと思えるのとちょうど同じです。赤ちゃんとお母さんは,2人とも心から優しいということは,最初に知ることになっていることですし,最初に信頼を創造するものですから,大文字の希望の足です。
大文字の希望は,人生の実験を根底から支える良さとして一度出来上がると,「様々な上手くいく見通し」が見通し通りでも,そうでなくても,いつでも,生きているってすばらしい,という希望があります。と言いますのも,人が心身ともに大人になることの中にこそ,様々な具体的な希望って,出来事や状況を望む希望が実現したときには,もっと先にある様々な希望の足が,先回りして静かに待っていますからね。赤ちゃんが自分から関わって歓ぶ歓びが次第に増えれば,信頼を作り出すことが増して,上手くいく見通しがそれだけ豊かにされますから,もっと先にある様々な希望のおかげで,赤ちゃんは,新たな期待に胸弾ませることも増えますね。それと同時に,その赤ちゃんは,「No」と言い返す力も伸ばします。聖書の神様の最高の光に似てくれば,叶わなかった様々なよき見通しから,素晴らしい見通しが生まれます。それに,心から真似びたい相手を夢見るようになりまりますし,いまここにあるものは,とても良い,と約束してくださる聖書の神様の試練を,生きている実感が引き出されて,̪̪信望愛に至るまで,続けます。聖書の神様がいつも育ててくれる良い見通しは,何があっても大丈夫 なだけではなくて,聖書の神様の心から優しい命が一巡する場を,どこでも何度でも,作り出すことができる,と見通すことになっています。それは,聖書の神様の心からの優しさを信頼することは,様々な山をも動かす,と言われている通りなんです。聖書の神様の心から優しい命が一巡する道から外れてしまった場合でも,大文字の希望が,息を合わせる大人に育てて下さる,唯一無二の救い主キリストのスピリットに,体得底で近づけるようにしてくれます。息を合わせる大人に育ててくださる,唯一無二の救い主キリストのスピリットが働く場では,内的促しにピッタリと合う心の習慣が備わり,聖書の神様の命が一巡しますから,互いに大切にし合うことに決まっています。ただし,聖書の神様の命と正反対に粗末にし合うことが,あの全うな人や,聖書の神様の心から優しい命が一巡する場を,どこでも何度でも,作り出すことができる,と見通す,あの見通しに勝らない場合です。人間に生まれたあかちゃんにとって,自分のお母さんこそが,「現在形の創造主」です。お母さんは,聖書の神様の法則では,赤ちゃんにとって,最初に聖書の神様のあの約束を必ず守ってくれるキリストになる「予定」です。お母さんがキリストみたいに必ず約束を守る人になれば,約束を守ってもらえるという信頼が,他の人からも引き出せるし,自分が生きている実感の輪がますます広がります。ですからね,聖書の神様が,私が生きている実感を「とっても善い」として下さることは,母子が共に育つ人になる聖書の神様の法則では,スピリットの光 の中で始まります。母子が共に育つスピリットの光は,聖母マリアの様々な絵を見れば,母子2人が,正しいことを押し付け合うこともありませんし,思い煩いあうこともない,2人が共に居る道であることもわかります。しかも,聖書の神様の命が一巡する場では,母子2人を共に育てて下さるスピリットの光は,何度もバラバラにされる落とし穴がパックリと口を開いていても,ピカリと輝き閃き続けます,実る中でバラバラにされそうになっても,倒れてバラバラにされそうになっても。
一番大事な祈り,聖書の神様の一番大事な約束が,思いがけず見つかりましたね。「大文字の希望は,ホットけいな願いは,必ず実現するに決まってます,ということを信頼して,待つことができる,ということです,たとえ,はじめは,なんで自分だけこんな目に合わなければならないんだろう,ということや,訳の分からないことがあっても,ね」。大文字の希望は,聖書の神様を信頼する自分が創造される不動の岩盤ですし,善きサマリア人みたいな,ホットけない関わりのお手本に必ずなる,心豊かに聖書の神様を信頼する歩みが,我が身を任せる風です。
大文字の希望が豊かだという,類い稀な在り方は,様々なイメージが育つ場に翻訳するならば,自然の中では楽園ですし,人との関係の中ではユートピアですし,あの世では天国になるでしょう。2つに分けることができない,全うな人の中では,いまここで,大文字の希望が豊かだと,すぐにはシックリとしない「最高」になるでしょうね。と言いますのも,不動の岩盤である大文字の希望は,育ちが速い自分の喜びと人の喜びが,必ずぶつかり合うことになるに決まっていて,それは,とても祈れない,と思うほどの苦しみだからです。赤ちゃんの五感と筋肉が,自分から関わるチャンスを掴み取ることが増してくるにつれて,自分の心の車輪をまわすのか,それとも,相手が心の車輪をまわすのをよしとするのか,迷うようになります。「心から歓んで関わる」ことは,わがまま勝手ということではなくて,止むに止まれぬ気持ちを聖書の神様の命が一巡するように,判断し決心する力が益々,体得底で身につくことなんですからね。人間が生きる予定にした聖書の神様の道は,
①自分にできることを心から歓んでやるようになることですし,
②やるべきでないことは心から歓んでやるに値しない,と繰り返し誓うようになることですし,
また,
③やるべきことは心から歓んでやれば,必ず実現する,と信頼するようになることです。
聖書の神様の道では,「心から自由に歓んで,微妙の法門を生きる」ことは,アーメンとはなかなか言えない,逃げ水みたいな問い,の源になるに決まっています。「心から自由に歓んで,微妙の法門を生きる」ことは,聖書の言葉からも,聖書の神様が語る声からも,聖書の神様の命と力を人間が頂く試練の連続になるに決まっています。聖書の神様が居られる場は,大文字の希望と「心から歓んで,微妙の法門を生きる」こととがなければ,誰も生きられないんですから。自分が拠って立つ土台とぶつかる心がある,対等な関係の中にこそ英知があると分かった人は,「心から自由に歓んで,微妙の法門を生きる」ことや大文字の希望を探しながら,心の中の守護神であるキリストを心から探し求めることって,アーメン,ほんとに真実なことだなぁ,って,実感が益々湧いてきます。やるべきことを心から歓んでやる,あの心の習慣でも,神々や指導者たちのために,人間が捧げてしまえば,自分のために思い出し,祈りとしてきたことを,神々や指導者たちから,暴力的に利用されることになります。
心から陽気で楽しい歓びが初めて手に入るのは,すべての人が(訳注:赤ちゃんの時期に)立つ時みたいに,私が目の前の,一見バラバラな様々な実験を一まとめにする時です。目覚めていることと意識していること,それから,手塩に掛けること,話し言葉にすること,聖書の神様の心からの優しさで,思いがけず,一心同体になり胸震わせて感動する場は,一見バラバラに見えますが,一つになるとき,心からの陽気で楽しい歓びが始まるんですからね。切っても切れない絆を鍛錬することは,身体の内側の体感が自分をコントロールできるようになるのか,それとも外側の大人からコントロールされるままになるのか,を一つに結び付けることができない躓きの繰り返しに焦点を当てることになっています。躓きの繰り返しに焦点を当てることは,すべての筋体系の中で,筋肉が緊張とリラックスの2つの働きをすることの中で,繰り返し再登場します。つまり,2つに分けることができない全うな2人が,顔と顔を向けあって,互いに大切にしあうことと,廻向した本物の大人が,仲間として身をもって生き方を示すことが,切っても切れない絆の訓練になるんです。(躾がなってないことからくる,あるいは,教えすぎからくる)負け犬になる心の習慣は,心の底からくる恥になりますし,自分がしたことは,本当に心から歓んでいるのか,あるいは,自分が心から歓ぶことをしたのか,が分からず,迷子になります。
しかしながら,心から歓んで生きることが,私が育つ赤ちゃんの時期に,安心できた赤ちゃんの魂に,聖書の神様から打ち込まれていれば,大文字の希望がそうであるように,みなさんひとりびとりの私は永遠にいつも元気ですから,人間は弱い存在に見えますが,その弱さを乗り越えます。と言いますのも,心から自由になった本物の大人(訳注:大人のキリスト者,あるいは,大人の仏教徒,ないしは,大人のイスラム教徒)は,一足一足,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡する相手は誰なのか,自分はどうすれば,その相手と聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡するようになるのか,という体得底の英知を身に着けるようになるからです。聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡せず,負け犬になることが多い場合でも,それにもかかわらず,人は,一心同体になることには,なかなか受け入れがたい法則があることを,体得底で身に付けるようになります。そのなかなか受け入れがたい法則とは,外側で行われる様々な出来事が,創造の初めから,封印している「意識の奥底の空っぽの時空に,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡する場」がある,ってことを,人は腹の底で知っている,ということです。と言いますのも,一心同体になることは,晴れ晴れと生きる中に元来備わっている気高さだからです。
聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の,心から優しい命が一巡する場を,いつでも何度でも作り出せる,という見通しを持つことが,大文字の希望です。
聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)と一心同体になり,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の心からの優しさに感動する神秘。
こちらも,暗号を解けば,以上のようです。
意識の奥底にある空っぽの時空に,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡する場」があります。その時空から,最高の光が煌めきます。
その最高の光の,なんと嬉しく,歓ばしいことか。
#見通しの賜物 #一巡する道で #聖書の神様 #全うなスピリット#最深レベルの心理:#奇跡研究 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→143......
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Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』から,6年ぶりの改訳の続きです。p.175の,ブランクの後から。今朝は,最後の最後,第2パラグラフ,最後の2行。
心から自由にされて善かったとなることが,2人が対等な対体験をして,一心同体になるのは,「心から優しい聖書の神様」が,最深欲求と,人類皆兄弟,思慮深い行い,畏敬の念,毎日礼拝とに,三昧の中で毎日味わう気高い歓びを,打ち込んでくださる,と腹の底から信頼するからなんですね。こうして薫習された習気(じっけ)・心の習慣の中では,(訳注:この本の冒頭で触れたことですが,)プラトンが,飛び跳ねることこそ,陽気で楽しい歓びのひな型だ,と示したことに立ち返りましょうね。私ども人間が全てが,聖書の神様(ないしは,阿弥陀様,あるいは,アッラーの神様)の命が一巡する気高さに飛び上がり,不動にされて,心からシャローム平和にされてこの世に,日々生きることが出来ますように,聖書の神様(ないしは,阿弥陀様,あるいは,アッラーの神様)に心底お祈りします。
キリスト(ないしは,阿弥陀様,あるいは,アッラーの神様)の圧倒的な恵みの力で,薫習された習気(じっけ)・心の習慣から,陽気で楽しい歓びを生きるから,飛び跳ねる=発達できる訳です。
それは,聖書の神様(ないしは,阿弥陀様,あるいは,アッラーの神様)の命が一巡する気高さに飛び上がり,不動にされて,心からシャローム平和にされてこの世に,日々生きることによって,はじめて可能になります。
その他に道はありません。