私どもも、integrity 「試練に何度も出くわしたけれども、“人生上手く出来てるなぁ” という感じ」を持ちたいものですね。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p61の後半の第2パラグラフから。
私どもは、人生千秋楽の二律背反を理解しようとする前に、よく考えてみる方が良いのは、あらゆる発達には歴史的相対性がある、ということと、特に、あらゆる発達理論には歴史的相対性がある、ということでしょう。たとえば、人生千秋楽の舞台。私どもがこれを定式化したのは、私どもが「人生の半ば」を迎えた頃でしたね。それは、私どもが実際に中年になっているとは、思ってもみなかった(あるいは、そう考えることができる想像力もない)頃のことであるのは、確かな話です。これは、ほんの2・30年前のことですよ。でもね、人生千秋楽の一番強いイメージは、全く違ってました。「年寄り」という言葉に、男でも、女でも、数少ない賢者を想像できましたからね。そういう賢者は、その人らの千秋楽の舞台に相応しい割り当てまで、心静かに生き残り、長生きは、限られた者にだけ与えられた天与の恵みだし、特別な責務であると思われた文化の中において、尊厳をもって死んでいく死に方を知ってるものでした。
「年寄り」と言ったら、賢者、物知り、と思われた時代がありましたね。年寄りの数が実際に今よりもはるかに少数であった時代でした。今は?「年寄り」と言われることそのものが少なくなりました。その代わり《高齢者》と呼ばれることが増えるにつれて、《高齢者》の数もたくさんになりましたね。すると、賢者、物知りという意味は衰え、社会的な弱者、すなわち、社会に知恵をもたらすよりも、負担をもたらす存在と見なされる場合が増えてきましたね。
賢者の《叡智》はどこですか?
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