「上州かるた」から
内村は教員としては、失敗者でした。しかし、失敗者は「辺境者」でもありますね。マックス・ウェーバーの辺境変革説は、教育の世界でも当てはまるようですね。
内村と教育を語る場合、「教育基本法」について触れないわけにはまいりません。なぜなら、「教育基本法」を作った主要メンバーは、内村の弟子だからですね。教育基本法制定の言いだしっぺ、当時の文部大臣、田中耕太郎は、内村の弟子です。また、教育基本法を作った教育刷新委員会の主要メンバーも、内村の弟子です。初代委員長の安倍能成(当時、第一高等学校校長)、初代副委員長の南原繁(当時、東大総長)もしかり、その他の主要メンバー、天野貞祐、森戸辰夫もしかり。
戦後の文部大臣は三人連続、内村の弟子でした。まずは前田多門。神谷美恵子さんのお父さんでしたね。次が、「教育基本法」制定の言いだしっぺこと、田中耕太郎。さらに次が、前出の天野貞祐。
東大総長も、そう。最初は、リベラルと言われた政治学者、南原繁。南原先生の弟子が、丸山眞男教授や宮田光雄教授です。次が、矢内原忠雄です。わが恩師、西村秀夫先生も、矢内原忠雄の弟子です。南原繁は、内村と新渡戸稲造に共に学んだ人で、「白雨会」メンバー。それに対して、矢内原忠雄は、やはり内村と新渡戸に学んだ人で、「柏会」メンバーです。よこみちですが、内村と新渡戸に共に学んだ人たちに優れた人が多い、と指摘するのは、ICU教授だった武田清子さんですね(たとえば、武田清子 1995 『峻烈なる洞察と寛容』教文館, p28)。
こう振り返ってみる時、戦後の民主主義教育の基礎を作りだした人は、その大事な部分が、内村鑑三の弟子たちだったと言っても過言ではないでしょう。
内村の弟子が、創成期の戦後民主主義教育の中心にいたのは確かでしょう。これは、内村自身が、何よりも「信頼」を重んじ、その「信頼」に基づく「個の尊重」、「個の確立」を大事にしていたことと、無関係ではありません。
私どもも、いまの教育を考える時、「信頼」と「個の尊重」に立ち返る必要がある、と私は考えます。
つまり、子どもを信頼し、「あなたは特別です」と繰り返しメッセージすることが、何にもまして大事だ、ということです。
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