「その子ならでは」の要素とは、生育歴で繰り返し繰り返し現れることだ、とエリクソンは言います。これは、この繰り返しにその子の発達課題が示されているからだ、と考えられます。また、この先生のように、子どもが感じているけれども上手に言葉にできずにいることを、ハッキリ言葉にすることは、非常に大事なことです。その時に感じるであろう子どもの湧き上がるような、跳びあがるほどの喜びは、まさにヌミノースそのものと私は言いたいですね。子どもが言葉にできずにいたことを、その子の近くにいる大人が言葉にする時に感じる、大人の方の感触について、エリクソンは分かりやすく教えてくれます。
この種のデータに触れると、臨床を生業にしている私どもは、強烈な印象を即座に受ける場合があります。その印象は、臨床家たちの中で、次第に強くなるものです。それは、ほかの人ならば「収まるところに収まった」と印象を持つ程強い印象です。私どもが、もしその積み木が一つの体であると仮定するならば、そして、その少年の人形がその体の頭のところにあると仮定するならば、積み木全体は、当時この子を悩ませていた問題、すなわち、どうやったら体と頭を結びつけ、調和の中で共に働かせることができるのか、という問題を解決する、あの教師の決め台詞をそっくりそのまま繰り返している、と言っても差し支えありません。これこそ、私どもが中心的テーマとして受け止めたものです。その中心的テーマは、より小さなテーマ全てを結びつけて統一します。すなわち、この子が彼の人生において重大な課題全てを、体と頭を結びつける、あの(先生の)言葉と折り合いをつけたいという願いです。私がここで思い出すのはピアジェが言ったことです。すなわち、「子どもが何かを理解するためには、その子はそれを自分で組み立てなくてはなりませんし、それを作り直さなくてはなりません」。
目の前にある積み木・遊び(出来事)と解釈の言葉(話し言葉)には、ピッタリとした感じがある。ライムで示した翻訳は、そのことを伝えてくれていると考えられます。しかし、それだけではありません。同時に、その子の体験における課題(出来事)と、臨床家が課題を明確化する言葉、ここでは教員の言葉(話し言葉)とがピッタリとした感じがあることを、遊び、ここでは積み木が物語っていました。それが紫で示した翻訳でした。積み木・遊び(出来事)と解釈の言葉(話し言葉)、および、その子の体験上の課題(出来事)と教員の言葉(話し言葉)とは、本来バラバラなものです。しかし、それがピッタリと一致していると感じるのは、言語を含みつつ、言語だけでは語りつくせない感じ・感覚の共通性です。その感じ・感覚は、逆に申し上げれば、言語では語りつくせない、ということになります。エリクソンが、言葉を明確に(敢えて)定義せず、“a sense of ...”、「~という感じ」という言葉を多用するのも、今申し上げたこと、すなわち、課題と課題を明確化する言葉との一致、および、遊びと遊びを解釈する言葉の一致とが感覚的に統合される、ということと関連するものと思われます。臨床で大事なことは、この二重の感覚的一致がある、といえます。
これは蛇足かもしれませんが、一昨日「クローズアップ現代」で、オノマトペ(擬音語・擬態語)を取り上げて、その感覚統合的な伝達力の重要性を紹介していました。オノマトペの力と、エリクソンが狙っていることは極めて近い、と言えそうです。
この種のデータに触れると、臨床を生業にしている私どもは、強烈な印象を即座に受ける場合があります。その印象は、臨床家たちの中で、次第に強くなるものです。それは、ほかの人ならば「収まるところに収まった」と印象を持つ程強い印象です。私どもが、もしその積み木が一つの体であると仮定するならば、そして、その少年の人形がその体の頭のところにあると仮定するならば、積み木全体は、当時この子を悩ませていた問題、すなわち、どうやったら体と頭を結びつけ、調和の中で共に働かせることができるのか、という問題を解決する、あの教師の決め台詞をそっくりそのまま繰り返している、と言っても差し支えありません。これこそ、私どもが中心的テーマとして受け止めたものです。その中心的テーマは、より小さなテーマ全てを結びつけて統一します。すなわち、この子が彼の人生において重大な課題全てを、体と頭を結びつける、あの(先生の)言葉と折り合いをつけたいという願いです。私がここで思い出すのはピアジェが言ったことです。すなわち、「子どもが何かを理解するためには、その子はそれを自分で組み立てなくてはなりませんし、それを作り直さなくてはなりません」。
目の前にある積み木・遊び(出来事)と解釈の言葉(話し言葉)には、ピッタリとした感じがある。ライムで示した翻訳は、そのことを伝えてくれていると考えられます。しかし、それだけではありません。同時に、その子の体験における課題(出来事)と、臨床家が課題を明確化する言葉、ここでは教員の言葉(話し言葉)とがピッタリとした感じがあることを、遊び、ここでは積み木が物語っていました。それが紫で示した翻訳でした。積み木・遊び(出来事)と解釈の言葉(話し言葉)、および、その子の体験上の課題(出来事)と教員の言葉(話し言葉)とは、本来バラバラなものです。しかし、それがピッタリと一致していると感じるのは、言語を含みつつ、言語だけでは語りつくせない感じ・感覚の共通性です。その感じ・感覚は、逆に申し上げれば、言語では語りつくせない、ということになります。エリクソンが、言葉を明確に(敢えて)定義せず、“a sense of ...”、「~という感じ」という言葉を多用するのも、今申し上げたこと、すなわち、課題と課題を明確化する言葉との一致、および、遊びと遊びを解釈する言葉の一致とが感覚的に統合される、ということと関連するものと思われます。臨床で大事なことは、この二重の感覚的一致がある、といえます。
これは蛇足かもしれませんが、一昨日「クローズアップ現代」で、オノマトペ(擬音語・擬態語)を取り上げて、その感覚統合的な伝達力の重要性を紹介していました。オノマトペの力と、エリクソンが狙っていることは極めて近い、と言えそうです。
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