「蓮の花」のシンクロニシティある小学校で、兄弟の心理面接をしています。守秘義務がありますから、プライバシーに渡ることを、つまびらかにすることはできません。でもね、人の心の不思議と素晴らしさを、感じ......
今宵は、宮田光雄先生の言葉から学びます。『新約聖書』には、40程のたとえ話があるそうですが、その代表的な1つ「放蕩息子」の物語を、宮田光雄先生が読み解いてくださっているところです(『新約聖書をよむ 『放蕩息子』の精神史』岩波ブックレット から)。
この《放蕩息子》が父のもとに帰ることができたのは、彼の父の家の、ある《根本的に重要なもの》を失っていなかったことによるのではないでしょうか。すなわち、こころのもっとも深い内奥で、ある《根本的なつながり》を確信できていたからではないでしょうか。《父の思い出》によって、彼は父の家へと呼び返されたといえないでしょうか。そこには、絶望のどん底においてもなお、エリクソンの言う《根源的信頼》が生きていたのではないでしょうか。
絶望のどん底にいたら、「もうダメだあ」と思う場合が多いのではないでしょうか?
絶望のどん底にあっても、「大丈夫」と思えたら、こんなに嬉しいことはないのではないでしょうか?
何故なのかは分かりませんが、小学生と付き合っていますとね、この放蕩息子と同じことが、心の中で起きることがあるんですね。心の中に不意に「父親」が登場するからです。そして、父親の元に帰っていくのです。すると、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、見付かったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言いたいくらいのことが、現実にも起こります。
不思議でしょ。
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