フロイトは、「無意識の発見」によって、近代哲学を乗り越えることができたのに、「男尊女卑」の考えに囚われていたために、現実に捉われていたのです。
今日はP34の第二パラグラフ。第二章の終わりp76まで、フロムの『≪真の関係≫』を続けます。
異性間の性的な魅力は、緊張をなくしたいという動機で動機づけられるのは、ほんの一部分にすぎません。すなわち、異性間の性的魅力があるのは、異性という対極関係を結び付けたいという思いから、主として、動機づけせれているのです。男っぽさと女っぽさは、性的な働きだけじゃなくて、「性 たち」でもありますね。男っぽい性は、やり通すこと、諭すこと、元気に動くこと、規範に従うこと、それから、勇気を出して大胆にふるまうこと、といった性格として定義できます。女っぽい性とは、何かを作り出すために引き受けること、守ること、チャッカリしていること、その場にじっと踏みとどまってること、温かいといった性質です。(どなたにも、男っぽさも女っぽさも混じっているけれども、男なら、「男っぽさ」が、女なら、「女っぽさ」が優っていることは、常に心にとめておかなくちゃなりません) 男が気持ちの上で子どもっぽいままですと、男っぽさが弱くなる場合が多いけれども、そうなると、自分に男っぽさが足りないことを、「性役割」において、男の役割をひどく強調しすぎることで補おうとします。性格的な男っぽさに自信がないから、性役割で武勇を証明しようとする結果が、まさにドン・ファンですね。男っぽさが足りないことが極端になれば、サド(実力行使)が中心になります。男っぽさを取り違えているんですね。女っぽさが弱かったり、取り違えちゃえば、女っぽさは、マゾかお局様(仕切り屋)になっちゃいます。
ここも面白いですね。男っぽさ、女っぽさは「性 たち」なんだっていう点です。ですから、「心はバイセクシャル」なのでしょう。人は誰でも、男っぽさと女っぽさの両方がある。たとえば、臨床心理士は、女性の方が圧倒的に多いですが、男の臨床心理士でも、仕事柄「受容(「何かを作り出すために引き受けること」)」を大事にする点では、必ず女っぽさがなくちゃあ、勤まりませんよね。
男っぽさは、夕日のような輝きがある。
女っぽさは、虹のような煌きがある。
サドとドンファンは、男っぽさが足りなすぎるから、それを実力行使で補おうとする、ギラギラしたお門違い。安倍晋三首相がまさにこれです。
マゾとお局様(仕切り屋)は、女っぽさが足りなすぎるか、取り違えちゃった結果の、ギラギラしたお門違い。
自分や周りの人をみると、フロムの言っていることがよく分かって、実に「オモロイ」!
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