エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「生きている不思議 死んでいく不思議」とこの世を超えるヴィジョン

2013-08-12 01:42:24 | エリクソンの発達臨床心理

 このひまわりも、東向き

 1つのテーマにも、そこにはいろいろなヴィジョンを孕み得ることが分かりました。ですから、ヴィジョンが投影された物事を鑑賞する者にも、それを読み取るためには、様々なヴィジョンの可能性に開かれていなければなりません。

 

 

 

 

 

 このようにして、様々なテーマを組み合わせた全体だけは、過去において特別に創造された、1人の被造物(人間)が、予言された未来が確かなものだと信頼することに導くことによって、あらゆる生と死、それから、生と死の間にあるさまざまな謎を意味付る見通しを、 「永遠の見通し」にすることができるのです。しかも、世界に対する新しい物の見方が一ついったん確立されれば永遠の復活を象徴する、自分を確かにする、敗者復活の道を手に入れるだけではなく、その方法や儀式、価値の序列や闘いの最前線も手に入れることになります。こういったことは、信頼感のある<私>を、他の、死が必ず訪れる<私>達と結びつけるのに、1人の神なる<私>を結び目とする、という源になるヴィジョンを強力に作り上げます。このようなヴィジョンがあって初めて、人間は、赤ちゃんの時にかなり大きな呪いをかけられる運命(それは、生まれてこない運命でしょうか?)から、守られていると感じるものですし、選びに与った少数の者だけが救われても、選びから排除されたその他すべてものは滅びることになる、という1つの「最後の審判」の判断に正面から対することができるのです。このようにして、私どもは、死すべき運命と無限の時空と、政治的に取引ができます。つまり、最も優れたヴィジョンは、実存的なニーズを政治課題にしたり、人間の孤独と死につけ込んだりする、体制側(たとえば、いろんな教会)に深く根を下ろすことになるだろう、という事実を見過ごさないようにしましょう。というのも、私どもが、自分自身の体の死を真実に受け止めることができると否とにかかわらず、私どもの魂が特に恐れるのは一人ぼっちでいることと、生きているのに永遠に<私>が死んでいることだからです。(自分を確かにする道を奪われる、強い恐れに対して、私は素晴らしい格言を、この「受胎告知」の絵が描かれた、まさにその世紀に首をはねられた人の墓石に見つけました。すなわち、「わが青春は去りぬ、なれども、われは断然青年なり。 われこの世を認めたり、しかるに、われいまだ世あって認められざりき。」 )

 

 

 

 

 生死と、生死の間にある様々な謎の意味を意味付けることは、科学技術ではできません。目に見えるものを対象とする科学技術は、生死とその間の謎の意味などという、目には見えず、この世を超越するものに答えることは、そもそもできないのです。それは、はるか昔から、宗教(素朴な信仰~大きな組織を持つ教団)が担ってきた役割です。次にそれを示します。

 1) 私はなぜ(あるいは、何のために)生まれてきたのか(この世に存在しない状態→誕生)?=生きる意味

 2) なぜ死んでいくのか、死んだらどうなるのか(死→この世に存在しない状態)?=死ぬ意味

 まさに「生きている不思議、死んでいく不思議」です。この二大疑問をエリクソンは、赤ちゃんの時に呪いを懸けられる運命、と呼び、最後の審判、と言っているのです。前者については、エリクソンはさらに言い換えて、一人ぼっちでいることへの強烈な恐怖、と、生きているのに永遠に<私>が死んでいることへの強烈な恐怖、と言っています。仏教でも「四苦八苦」に内の2つ(2苦)です。

 これに答えるためには、私と相手(の<私>)がつながっていなくてはなりませんしかも、私と相手の繋がりは、神なる<私>が繋ぎ目になってもらわなくてはなりません。そういう繋がりをもたらすヴィジョンが必要なのです。私とあなたの間には、この世を「超越」した人格(的価値)が必ずなくてもなりません

 しかし、現実には、体制維持のために、人間の恐怖につけ込む体制側、権力側が、最も優れたヴィジョンを持ちがちであることに、エリクソンも、人々の注意を喚起しています。つまり、その「この世を『超越』した人格(的価値)」はいつでも、この世に落っこちてくる危険を孕んでいる、というわけです

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