自分の手で、将来は変えられるぜぇ!!≪いまここ≫をホントに生きてる? 温もりと学び 見ることの三項関係 心はこの三つが結びついてできるものなのです 加藤周一のような...>......
今日の聖書の言葉はἐπιούσιος,エピウーシオス,1日分の,です。
でも,その一日が,今日なのか,明日なのか,あるいは,一生の中の一日,つまり,一生なのか,わからないみたいです。用例が少ないのだそうです。
実際,『新約聖書』の3番目のイエス・キリスト物語「ルカによる福音書」の第11章にあるくらいらしい。その3節。
「主の祈り
11章 1あるところで祈っておられたときのこと、それがすむと、ある弟子がいった、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、われらにも祈りをお教えください」と。2彼らにいわれた、「祈るときはこういいなさい、
父上、み名の聖まりますように。
み国が来ますように。
3その日の食べ物を日ごとわれらにお与えください。
4われらの罪をおゆるしください、われらも加害者を皆
ゆるしますから。
われらを試みにおあわせなく」
と。」
前田護郎先生は,「その日の」と訳しているのが,ἐπιούσιοςです。
一回しか出てこないのに,それが「主の祈り」という,一番人口に膾炙するする祈りなので,どう訳すかが問題ですが,先ほど辞書を引用しましたように,いろいろの意味があり,定説がないのだそうです。
欲張りな人は,「将来の分,一生分をちょうだいな」といいたくなると思います。
でも,欲がない方がいいらしい。その場合は,「せめて今日の分を,お願いします」ということになるのでしょう。
聖書の大切な教えの一つは,「心配すんなぁ」(「思い煩うな」とやる場合が多いですが)ということです。だから,「1日今日の分を,お願いします」でお願いしても,「明日の分も任せない」というのが,神様の応えではないかなぁ,と想像します。
あなたは,「今日の分」,「明日の分も」,それとも「一生分」?
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