「いいよ」「ダメ」と言われても大丈夫になるのは、十分に「いいよ」「いいよ」と言われてから。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p47の第2パラグラフから。
臨床的に言ったら、この段階に由来する重大な心の病が、どういう事態をひき起こすのかを私どもは知っています。繰り返しですけれども、それは礼拝の失敗なんですね。その礼拝とは、幼い子どもが自由に振る舞う範囲を、わがままが許されない所でさえ、その子が、あれか、これか、を選べる選択の余地が許される、という風にハッキリ示すという礼拝ですが、この礼拝に失敗してんですね。 この礼拝が失敗しますとね、「正しいこと」と「やってはいけないこと」、「良いこと」と「悪いこと」、自分の物と相手の物を区別しなくちゃならない、ということを礼拝の中で、そうですねと受け止める代わりに、極端に強迫的に大人に従うことやら、強迫的に衝動的に行動することになります。同様に、礼拝に失敗した大人たちは、建設的な礼拝をやれ遂げることができないで、「~ねばならない」だとか言いつつ、一時の感情に流されて、さらには、一番冷酷であることも多い、形ばかりのおざなりをすることしかできません。
エリクソンが、これを書いたのが、1982年ですから、もう33年前ですね。でも、ここはまさに、今の日本の学校の現状を予言しているかのようですね。礼拝とは、イキイキしたやり取りを通して、人と人智を超えた存在との関係を確認して、自分を確かにする人間関係のことですが、今の日本の学校は、それができない。やってることと言えば、カリキュラムと校則を、子どもに押し付けることくらい。まあ、発達トラウマ障害の子どもたちだらけですから、三項関係を前提とする日本の学校制度は、すでに破綻している、と見ることもできますから、それは個々の学校の責任でも、個々の教員の責任では必ずしもないけれどもね。
まあ、この点については、今日はこのくらいにしましょう。エリクソンが明確に示しているように、子どもが自由に振る舞え範囲、枠組みがハッキリしないのは、礼拝の失敗です。一番多いのは、大人の身勝手のために、子どもが自由に振る舞える範囲が、日々、刻々、変わるパターン。次に多いのは、子どもが自由に行動できる範囲が、非常に狭くて、子どもに任せても大丈夫な部分までダメと言われるパターンです。
≪いまここ≫で、私どもに求められていることは、子どもとやり取りする中で、子どもが自分でコントロール出来る範囲を見極めて、それよりも少し広い範囲を、子どもが自由に振る舞える範囲として、子どもと大人が約束にすることなんですね。
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