エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「食事を共にすること」が≪私≫とコミュニケーションのはじめ

2014-10-03 06:34:47 | アイデンティティの根源

 

 あくまでも、人間を大事にする、と言う視点を大事にしたいですね。

 p351第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 私は、すでに分かっていることを単純にまた繰り返していると思いますが、こうするのは、前の時と同様、「≪私≫という感じ」の1つの次元にとって重要なことを指摘するためなんですね。ここに、歴史的な、あるいは、歴史を超えた瞬間の意味を表わす、と思われる礼拝ならどんなものでも、自分が参加するという、選択と感じがありますよね。私がすでにご指摘したことですが、人の赤ちゃんがおっぱいを貰う状況を、根源的に信頼することが大事です。その状況には、目と目(次第にハッキリ見えるようになります)が合うことが「≪私≫という感じ」の重要な源である、ということも含まれてますでしょ。しかし、それだけではないんですね。目と目が合うことが、「最初の≪私たち≫」の源でもあるんですね。目と目が合うことが、愛餐に付け加わると私は信じています。与えられた食事に呼ばれ、あるいは、その準備をすることを共に感謝して、特別な眼差しとほほ笑みを自然に交わすことに現れる仲間としての付き合いをともにすることが、愛餐にはもともとあります。愛餐は、もちろん、古来ユダヤ教の礼拝ですが、愛餐は、その最も高貴な表れが、「洋の東西からくる多くの者たち」、そのすべての人がアブラハム、イサク、ヤコブと食卓を、天国で仲良く分かち合うにあります。実際、愛餐をする時、それぞれの≪私≫が、「食事を共にする≪私たち≫」の中に永遠の場があることに、気付かられるんですね。

 

 

 

 

 愛餐、食事を共にすることで、神に感謝し、慈しみのある眼差しと微笑みを交わす中で、愛餐を共にする者ひとりびとりが、仲間であることを確認する食事。それには目と目が合うことも含まれると言います。確かに、食事をしながら、目と目が合わないことの方が不自然ですもんね。これは、エリクソンによれば、赤ちゃんがお母さんからおっぱいを貰う時の再現らしい。愛餐をする度に、赤ちゃんがお母さんからおっぱいを貰った時に感じる根源的信頼感を確認することができるんですね。

 愛餐によって、赤ちゃんはお母さんからタイミングよくおっぱいを貰うことによって、根源的信頼感が育まれます。そして、この時、≪最初の私たち≫が生じますが、≪私≫は≪最初の私たち≫ができると、その結果として生まれるものなんですね。この出会いがコミュニケーションのはじめでもあります。コミュニケーションcommunicationとは、「愛餐を共にすること」がもともと意味ですから、ここでエリクソンが指摘しているように、≪私たち≫と根源的信頼感があって初めて、コミュニケーションが可能になるんですね。順番は決して逆じゃぁない、という点に注意が必要ですね。

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