人を大事にできるのは、自己愛から卒業して、信頼が豊かになった人だけ人を大事にする人は、どんな人でも大事にできますし、人を客観的にみられる人なら、どなたに対しても客観的になれます。面白いですね。 p112第2パラグラフ。 ...
選挙権が18才以上の市民に開放されて、にわかに「主権者教育」ということが言われるようになりました。今までは「主権者教育」はどうだったのでしょうか? そもそも「主権者教育」とはどういうことを言うのでしょうか?そもそも「主権」とは何のことでしょうか?
主権については、当ブログでも、何度か取り上げてきています(ポーゲンセの感動、基本的人権を蔑ろにしている安倍政権 国家>個人 は大間違いなど)。
放送大学の宮本みち子さんによれば、スウェーデンでは、学校が民主主義教育、主権者教育の要になっているようですね(http://www.akaruisenkyo.or.jp/wp/wp-content/uploads/2012/08/swe.pdf)。そこで宮本みち子さんが強調している点は、社会科教育です。スウェーデンでは、社会科の教育には、2つの特色があるといいます。いずれの点も優れた人権教育、優れた主権者教育になっていると私は考えます。
1つは、社会科教育が、年号や歴史上の人物の名前や歴史的事件、制度の名前を暗記することが中心の日本の社会科教育とは異なり、子どもたちが「賢く安全に」生活するのに役立つものになっているそうですね。いわば「賢く安全な生活ガイドブック」になってる訳ですね。
もう1つは、「社会は自分たちの手で変革できるものなのだということを教えていることです」。ですから、丸山眞男教授がおっしゃるように、制度や規則を「既製品」として受け取る日本人とは正反対ですよね。スウェーデンでは、制度や規則は変更することができるものと、教えられているとのことです。これは非常に大事ですね。
今の日本は、政治は、変わらない、変えられない、という無力感が広まっているから、国政も地方政治も、投票率が減ってんですね。それは、日本の社会科教育が、スウェーデンのような生活ガイドにもならず、制度や規則は変えられるということを、伝えてないし、むしろ逆をやってるからでしょう。暗記中心の社会科教育は、制度や規則を「既製品」として受け取る態度に似ていますし、学校にある制度や規則も、子どもにとっては「既製品」でしょ。子どもはそれを変更することができない、「言っても無駄よ」ということは学んでも(「ルールなんだから、従いなさい((ルールや教員の)下になりなさい)」)、制度やルールや教員に対して、物申し、それを変えることができる、ということは学んでないんですね。日本の子どもは、学校教育を通じて、「言っても無駄」ということと、「従順」という名の無力感を、学んでいることが多いと私は強く感じます。
私は、主権者教育や人権教育は、何か特別なものではないと考えます。むしろ、普通の教科学習や日常生活の中で、学校の制度やルールは変更可能だ、ということを子どもたちが実感できるような教育現場にしていくことが、真の主権者教育であり、真の人権教育だと、信じて疑わないものですね。
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