他の人を自分の思い通りにする悪魔相手のことを知り尽くすことなどできないからこそ、人に対して寛容にならざるを得ませんし、人を知る際に、謙虚な心にならざるを得ないません。今日は、p28冒...
エリクソンの記述は、非常に凝縮しています。 それは、その背景にある体験を繰り返し体験し、体験しただけではなく、それを繰り返し言語化し、言語化しただけでなく、その言語と体験(話し言葉と出来事)の一致具合を繰り返し検証したからに他なりません。ですから、エリクソンの記述、言葉は、体験(出来事)とピッタリとした、ウソとゴマカシのない言葉です。しかも短い。体験、その臨床がある人であれば、ツーカーなのですが、その体験、その臨床がない人には、なかなか理解できない場合もありますね。エリクソンの著作の、日本語翻訳が、誤訳の塊であるのは、この体験、この臨床(と言っても、必ずしも心理臨床に限りません。大江健三郎さんのエリクソン理解が深い様に、それは狭い「専門」を遥かに超えた、人間に対する洞察に繋がる体験、と言った方がより正確だと私は考えます)がないからです。
でも、小難しいことを言いたくて、今ブログを書いてるんじゃぁない。もっと素朴なことを具体的に描きたいと思ったんですね。それは、臨床にある二律背反に関することです。このエリクソンの記述が、非常に凝縮していますから、イメージが湧かない人もいるだろうと考えたんですね。1つ具体例を挙げるとイメージが湧くんじゃないかと。
いま、10人強の子どもたちとコラージュ療法をしていますが、その中の2年生が、抜群の集中力を発揮してんですね。これは、数十人から100人に1人くらいの子どもが示す集中力です。私は、これまで数名しか経験がありません。その子は、授業に集中できないし、言うことを聞かない、と言われている子どもです。
その子は、キラキラした眼で、コラージュをします。一心不乱にアイテム(気に入った写真や絵)を図鑑などの本の中に探します。それは、一流の研究者が、資料を読み込んでいる眼と同じです。アイテムを見つけて切り出すと、裏に糊付けして、台紙に貼ります。その手際の良さは、一流の職人と同じです。そして、コラージュが完成すると、タイトルをつけ、コラージュの物語を話してくれます。そして、〈全体は?〉と私は問います。「スッキリした」。そう答える場合が多いです。
コラージュ療法は形が決まってます。枠からはみ出ることもできません。この子も、その形と枠に従って、真面目にコラージュ療法をしています。しかし、この子は、いつも目をキラキラされてくれます。別に僕のためじゃないけれどね。自分の言葉にならない気持ちが「スッキリ」するほど出せているからに違いありません。
そう、真面目なのに、陽気で楽しい、がいつもあり、繰り返し馴染んでいるのに、いつも、ビックリするほど上手に自分が表現できたという驚き、がある。
不思議でしょ。
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