政治屋的専門用語、ウソとゴマカシの塊の、あるいは、単なるおバカなアベシンちゃんの言葉遣いが、巷に溢れています。間違いだらけの言葉遣い。アベシンちゃんの国語は「1」だったことだけは間違いないでしょう。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p45の下から1行目途中から。
「現実にあるもの」の世界とは、子どもが見つけ出さなくてはならない世界ですが、それは、その子ならではであって、大切な、認知的であるばかりではなく、情緒的な関心事です。ともかく、この世界の心理性的な側面を補うのが、1人の大事な「相手」、すなわち、1人のお母さんという存在に出会うことができる、心理社会的な力と、自分が、そのお母さんからみたら、1個の別の個人だということが分かる、心理社会的な力でもあります。同時に、「現実にあるもの」の世界は、赤ちゃんの激しい怒りと不安に出合います。その赤ちゃんの激しい怒りと不安は、動物の赤ちゃんの混乱と恐怖よりはるかに、複雑で運命的のように思われます。赤ちゃんが1人のお母さんとの愛着が損なわれると、極端な場合は、赤ちゃんが「自閉症」の子どもだと分かりますし、赤ちゃんが「自閉症」であることは、お母さんがある種の回避性神経症であることに対応、ないしは、関係しているのかもしれません。もしそうならば、私どもは、やり取りが貧しいことは、一種のプライベートな、すなわち、「なにかが足りない」「欠陥のある」形ばかりのやり方(儀式主義)だということが、診て分かります。それは、眼と眼が交わることがないし、顔と顔が気持ちを交わすこともしないことに特色付けられますし、その子どもには、いつまでたってもなくならないし、希望のかけらもない、決まりきった身振りが診て取れます。
エリクソンは、赤ちゃんが自分のお母さんとやり取りがないと、どういうことになるのか、それはなぜそうなるのかを、見事に記したところでしょ。「自閉症」と「」で書いてあるのは、いまでは、愛着障害と明確に言った方が良いところでしょう。エリクソンも同じユダヤ人として、ハンナ・アーレントを読んでます。実際に何度も引用してますしね。ここのプライベートの用法も、ハンナ・アーレントから借用したものでしょう。鋭いですね。プライベートprivateは、人がデブライブされた deprived 何かを奪われている 状況と見ていたみたい。
面白いでしょ。藤原保信先生の『自由主義の再検討』p.199
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