神様は現在進行形、改訂版ティク・ナット・ハン禅師は、≪いまここ≫の自分、ありのままの自分に気付くことを薦めていましたね。今日はその≪いまここ≫を考えてみたいと思います。 ≪いまこ...
神様は、自分のことを、Ἐγώ εἰµι ὁ ὤν エゴー、エイミー、ホー、ウォンと呼びました。Ἐγώ εἰµι ὁ ὤν は、英語で言えば、I am the Being. です。英語でも、大文字で、Beingと言えば、「神様」という意味がありますでしょ。ギリシア語でも、ὤνは、存在をしめす、εἰµι の現在分詞なんですね。 神様は現在進行形ということでしょ。
これはどういう意味があるのかなぁ? 別に、クリスチャンやムスリムでなくても(キリスト教の神も、イスラム教の神も、ユダヤ教の神も、同じ神(唯一神)です)、その意味を知るのは、さらには、実感することは、とても大事なことだと、私は信じて疑いませんよ。
神は、『旧約聖書』の始めに出てくる、「創世記」で、宇宙を創造します。二通りの創造神話が「創世記」のあります。最初の創造の物語は、7日で宇宙を創造した話です。神様は、一日の創造が終わる度に、「神はそれを見て、良しとされた」と「創世記」に記述されているように、「良かった、良かった」と肯定していた、ということですね。つまり、神様は、眼の前にある全てを肯定している、ということです。
これには大事な意味がありますね。
私どもサイコセラピストのところに持ち込まれる話は、たいてい「ヒドイ話」です。到底肯定できる話ではありませんよね。それでも、サイコセラピストである私は、何か肯定できることはないのかな? と思う訳ですね。もしかすると、肯定できることが1つもないのかも分かりません。ジェノサイドの場面や、赤ちゃんが死ぬことなどは、そう感じることもありますよ。
その時に、私はこの創造の話を思い出す訳ですね。それが、現実だけに囚われない心構えだと考えます。≪超越≫の態度、神学者カール・バルトの言葉で言えば、「最後から一歩手前の真剣さ」です。眼の前に示されていることに、肯定できること等一つもない、と思えるようなところに、肯定できるかもしれないことを探すんです。宝捜しです。
そうすると、かすかな希望、光が見つかる場合もありますからね。
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