認知行動療法の認知を変えるのでも、実は認知だけでは役立たずで、認知+実感が変わるのが大事。いつでも大事なのは、自分の、人の気持ちでしょ。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.248、第4パラグラフから。
私は1人の取り乱した女性のことを思い出します。その女性は、私どものクリニックに来て、生後二か月の赤ちゃんを何とかしてくれと言うんですね。というのも、その赤ちゃんが「自己中」だから、って、言うんですね。その女性は、子どもの発達シートを付けたり、私どもが利他主義についての説明したことが、良かったのかしらね(良かったかどうかは、怪しいでしょう)。そのようなことを聴いても、その女性は助けてもらったとは思わなかったでしょう。その女性自身が、怖くて覗けない、見捨てている自分自身を、その女性が受け止めることが出来るまでは、ダメでしょう。この女性は人の頼るのが怖いことに、この見たくない自分が出てますもんね。
発達トラウマ障害が重たい子どもの場合、その母親も(父親も、かも)発達トラウマ障害が重たい、ということは、実に多いケースですね。今日、ヴァン・デ・コーク教授が指摘しているみたいに、そういう母親は、怖くて覗けない、見捨てている自分自身から逃げているのが、手に取るように分かりますものね。しかも、そういう母親に限って、心理面接に拒否的です。なぜなら、怖くて見れない自分があることに、うすうすその母親が気付いているからです。
この手のケースは、残念なことですが、いまの、中途半端で、非正規なサイコセラピストの学校への配置では、なかなか終結までには至りません。したがって、制度として、今のニッポンでは、重度の発達トラウマ障害の子どもと、その親は、見捨てられている状態だと言えます。私自身、この手のケースで、終結に至ったケースは、ほとんどありません。軽度でも、関われるケースは、文字通り、氷山の一角ですから、今のニッポンでは、発達トラウマ障害の子どものほとんど全員が、見捨てられ状態なんです。
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