昨日のところは、翻訳しずらいところでしたね。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.246、引用の後から。
痛々しい出来事について話すことって、共通理解を生み出せるって限りませんでしょ。むしろ、逆ですからね。家族でも、組織でも、内輪の恥をさらす様な者は、村八分ですからね。友達でも、家族でも、悲しみや傷で息詰まっている人には我慢なりませんでしょ。ですから、トラウマの犠牲者たちは、ひきこもっている場合が多いですし、彼らの話は、繰り返しの話になりますから、一番断ることが出来ない形に編集されてしまいます。
痛々しいトラウマを語ることは、まわりの理解が得られないことが多い。ですから、本当に理解されたと感じたら、トラウマをかかえた子どもは、心底嬉しいわけですね。
でも、そのような場は、聴く者も語るものも、意識的に作らなくてはなりませんでしょ。いつでも大事なのは、意識なんでしょうね。
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