生き延びる言葉は、バカに単純だった。私どもも、極力単純でありたいものですね。
昨日の続き、p342の1行目途中から。
しかし、バカに単純なことは、福音の本質だと、申し上げるつもりです。同時に、福音書の独特な芸術様式のおかげで、私どもは、すでに見てきましたように、こういった単純明快な言い習わしが、非常にイキイキとした出会いという、2人の織りなす現実の中で、語られていたことをイメージできますよね。ここで私は、長血の病から癒された女を思い出しますね。このたとえ話は、癒しが行われた側面から見ても、私どもの日常と仕事に非常に近い感じです。それは当時のガリラヤ人を驚かせたことでした。と申しますのも、私自身が専門的な応答をし、理論的な応答をすることをお許ししたいただくとすれば、イエスが、人混みの中にあっても、絶望している女に触れられたことを感じた、ということが現代的に申し上げて、非常に意義深い、からです。また、その時、イエスは、触られたことで、自分の中から、大量のエネルギーが失われたのを感じたことも、意義深いからです。と申し上げるのも、このことは、ある種のエネルギーのやりとり、すなわち、エネルギーがお互いに「転移」し合うことに相当するからですし、それを譬えで表現していることになるからです(フロイトは、このエネルギーをリビドー、すなわち、≪真の関係≫をやるエネルギーと呼びました)。
実に不思議な箇所ですね、ここも。バカに単純な言葉は、2人が≪真の関係≫を結ぶ際に使われます。その時には、フロイトがリビドーと呼んだ、≪真の関係≫をやるだけのエネルギーのやり取りが、眼に見えない形で、触れ合う、という眼に見える形を伴って、2人の間に生じるんですね。これは臨床そのものだと思います。
そこには、大学院の講義で使うような、専門用語も、小難しい言葉も、全くない!単純明快な、子どもでも(子どもの皆さん「ごめんね」)分かる言葉が、必ず語られます。その場の2人には、神聖にして侵すべからざる雰囲気と共に、飛び上るほどの、飛び跳ねるほどの楽しさ、悦びが必ずある。
まるで、2人は、輝く光のよう。
ついでに申し上げれば、西村先生の師に当たる矢内原忠雄先生が、「単純」を非常に大事にしたことと、ここでエリクソンが言いたいと思っていることは、非常に重なる、ということですね。
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