ロバートの積み木にはいろんな見方ができることが分かりました。特に、ロバートが自分を投影したと考えられる人形が、塔の天辺に仰向けに置かれているところを、エリクソンがどのように解釈するかが楽しみですね。
私は、人生のこの舞台(段階)に、心理社会的な「自発性」と「自分は悪いという感じ」の対立があると考えてきました。ダンスをする姿勢も、その先生の決め台詞も、仕事においても遊びにおいても両方に、かつまた、頭にとっても体にとっても両方ともに、新たな取り組みを始めたことは間違いないでしょう。他方、たとえ、そのヘビの運命が男根的な「自分は悪い子という感じ」に対する罰を意味しているか知れないとしても、夢魔は、ある性的なテーマに加えて、オエライ人たち、警察官、医者、「老人」が高圧的に脅していることを示しています。(実際、「超(上にある)」自我が、まだまだ未熟な自我に重くのしかかっていることを示す形として、これ以上優れたものはないでしょう)。この舞台(段階)の葛藤から生じる基本的強さは、「ハッキリ目的があること」ですし、ロバートの大好きな質問「どこでやるの?」に私どもは心を止めたいものです。
もし、私どもがこの舞台(段階)を、その極端な思い上がりが優勢であるがゆえに、エディプスの舞台(段階)と呼ぶようになるのなら、直立して立つ人間の姿勢のテーマがエディプス神話全体にも満ちていることを思い出してもいいのです。その極端な思い上がりとは、自分が父親になり替わって父親のもろもろの高い地位を奪い、また、人を押しのけても母親を自分だけのものにしようと空想することです。この「エディプス」の名そのものが「腫れた脚」を意味します。それは、エディプスが自殺をする前に脚に棘が刺さったというハッキリした理由のゆえですが、その棘は、大人になってから、この神のお告げが予言している、悪いことでも平気でする心(罪深い自発性)を防ぐためなのです。
ロバートは5才ですから、「日常生活の中の儀式化」の翻訳を参照すると、遊びの時期の子どもです。遊びの時期ならば、「自発性」と「悪い子という感じ」のどちらが増すかという危機の中にあることにもなります。ロバートは「悪い子という感じ」に押し潰されないでしょうか? エディプス神話の予言通りに「罪深い自発性」を発揮しないで済むのでしょうか? 心配ですか?それとも、あ~ん心ですか?
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