聖書の言葉 : イエスは包丁が好き? 旗印を明確にせよ信頼は、まだ、まだ、続きます 消耗品となっちゃった個人 個人はほとんど0になってる。でもね、完全に0になってる訳じゃぁない。 p79第2パラ......
Young Man Luther 『青年ルター』 p.179の最後から。
エリクソンは,一番大事なことを,理屈っぽく言わない人ですね。感心します。むしろ,楽しかった思い出,みたいな,感じですもんね。でも,私も思わず読み飛ばしてしまうところでしたが,ある単語が気になって,たまたまじっくりと読み返すことに今回なったんですよ。全くの偶然。と同時に,完全な必然。面白いですね。
私は,神様が人間全てを大事にしてくださるアガペーは実に陽気で楽しいもんだ,という,ちっぽけで,束の間の実例を見たことがありましたっけね。それは,ほんの20年ほど前(訳注:1938年頃),アメリカ南西部の小さなプエブロ・インディアンの村でのことでしたね。ローマ・カトリックに集団で従わないもんだから,破門されていたけれども,プエブロの人たちはお祭りの準備をしていたんですよ。おそらく,復活祭の準備だったと思います。…。聖母マリアは,大きなまん丸の,カラフルな衣装をまとっていて,頭には小さな王冠を載せていました。聖母マリアの真ん丸な胸のところには,ちっちゃな赤ちゃんのおもちゃが横にされていました。この神様は,ろうそくの代わりに,見事に実ったトウモロコシの茎で囲まれていました。心が響きあって,神様と心1つになることがどんなに嬉しくて嬉しくてたまらないことなのかを示す,陽気で楽しさを,感じない訳には生きませんでしたね。あの陽気で楽しさがあれば,宗教的な見通しがお先真っ暗な中でも,人々は一体になれますし,古い物の1番善い物と新しい物を一体にすることができますから,ねばならないこと(訳注:ニッポンでは,おバカな教育委員会やおバカな教員が示す,おバカなルール)の監視から自由にされるって,こんなに陽気で楽しいことなんだ,って,感じない訳には生きませんでしたね。破門になって,仲間はずれにされたって,平気で,歴史的記録には残らない 神様と心が響きあって,神様と心1つになることから,プエブロの人たちは,陽気で楽しい心からのエネルギーを貰ってたんですよ。もちろん,仲間ずれにされたら,神様と心ひとつになれず,神様から隠れている人たちは,ふてくされたり,心配になったりする人もいましたよ。それから,(訳注:これらのこと全ての)背後には,目には見えない司祭(訳注:イエス・キリスト)が1人いましたからね。その目には見えない司祭(訳注:イエス・キリスト)が,事を前に進める中で,(訳注:十字架で)殺され犠牲になっている,ということがありますけどね。
こうして,エリクソンは,セラピーの基本が,陽気で楽しい関わり,になりました。
こうして,ウァン・デ・コーク教授も,セラピーの基本が,陽気で楽しい関わり,になりました。
ついでに,こうして,私も,セラピーの基本も,生き方の基本も,陽気で楽しい関わり,になっています。
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