父なる神の真の中に、母なる神の真が含まれることがある、と言います。
p62後半のパラグラフから。
私は宗教における母性的な要素と父性的な要素の違いを議論するのは、神様の真の性質は、その宗教が、母性的要素と父性的要素のどちらにどれだけ重心を置いているのかによって変わってくることをお示しするためなんですね。宗教の父性的な側面のおかげで、私は神様を父親のように大事にすることができます。すなわち、私は神は正義にして厳格だと考えますし、罰も与えれば、ご褒美もくださると考えます。結局、神様は私をお気に入りの息子としてお選びくださると考えるんですね。それは、まるで、神様がイスラエルのアブラハムを選んだようですし、イサクがヤコブを選んだようですし、神様がお気に入りの民を選んだようでもあります。宗教の母性的な側面においては、私は神様をまるですべてを包み込んでくださる方であるかのように大事にします。私はずっと神様の掛け値なしに大事にしてくださる真を信頼してきました。それは私がたとえ貧しかろうと、無力であろうと、あるいはまた、私が罪を犯していようと、母なる神は私を大事にしてくださいますし、私を他の兄弟よりも大事にしてくださる、と信頼してきました。何があろうと、母なる神は私を救い出してくださるし、救ってくださいますし、許してくださいます。言うまでもありませんが、私が神様を大事に思う気持ちと、神様が私を大事に思ってくださる気持ちは、別々にはできないんですね。もし神様が父親ならば、父なる神は私を息子のように大事にしてくださいます。もし神様が母親ならば、母なる神の真と私の真とは、神様が母親だという事実によって、決まります。
神様の真も、神様が母性の方に傾くのか、逆に父性の方に傾くのか、によって、人を大事に思う気持ちに差が出てくる。不思議ですね。でも、神様の真が、父性的なのか、母性的なのか、はどうやって決まってくるのか? それも不思議ですね。
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