<私>が分裂する始まりと、内と外に「敵」がどうしてできるのか、について教えられました。エリクソンの「敵」に関する記述も見事でしたね。「敵が遠くにいる時は無視して、目に余れば、引き下げて(陰口・悪口を言って)、仲間のような顔をしたり、一線を超えてきたりしたら、攻撃する」という記述ほど、具体的でリアルな、敵に対する処し方を記した文章を私は知りません。
今日のところは、ジェノサイドを身近に体験したエリクソンならではの、リアルな描写が続きます。
これらすべてのことがハッキリ光を当ててくれるのは、人のやり取りの様々な側面において、陽気で楽しいことの初めと終わりについてです。この関係があるとするならば、私が認めたいのは、大人になった時期を私が定式化したことを訂正する必要がある、ということです。私が特に念頭にあるのは、中心的な成人期です。成人期に私は、「次世代を生み出す力」の発達を、新たな命を生み出し育む、人間らしい本能的な力として、割り当ててきました。その新たな命とは、子孫という形で、生産性を生み出す命にもなれば、創造性を生み出す命にもなります。私自身が議論を展開する中で分かったことは、「停滞」(これは、「次世代を生み出す力」の、正常な対、もしくは、病的な対になるものです)という名で呼んできたことが発達する中で、生きているのに死んでいることを十分には強調しきれていない、ということです。人間にある、次世代を生み出す力が、停滞して限られてしまうことは、また、特定の「拒絶する気持ち」を呼び起こします。この「拒絶する気持ち」とは、自分の「仲間 kind」に反対するように思われる者を、大なり小なり、情け容赦なく、抑え付け、ぶっ壊す(ぶっ殺す)ことです。この「仲間」とは、自分が増やしたいと願っている、特殊な人類の亜種、ないしは、自分が広めたいと願っている価値です。この破壊性は、神の名において(「一番大事なことを自分はやっている」と称して)、自分の子どもに対する、道徳的、ないしは、物理的な残忍さとして、現れます。その時、その自分の子どもは、突然、訳の分からない他人のように思われたり、より広い一つの地域社会の子どもにふさわしくないと思われたり、自分たちよりも低い人種に属しているように見えたりするのです。さらに申し上げれば、この破壊性は、繰り返し繰り返し、集団で表すバカデッカイ場を見つけては、戦争や、自分よりも程度の低い人種であるように不意に見えたものに対する、ジェノサイドになります。
ここでも、一人の人の「拒絶する気持ち」という心理的危機と、社会事象としての戦争やジェノサイドを、一続きに記述しています。見事な論述であるといわなくてはなりません。
これを、誤解を恐れずに、図式化すれば、次のようになるかもしれません。
1) 陽気で楽しい暮らしがない →
2) 「私」の分裂(「私」の中に、「拒絶する私」と「拒絶される私」ができる)→
3) 相手を「拒絶する気持ち」→
4) 子どもに対して、校則や躾けに関して厳しく言い立てる、ぶつ→
5) 自分とは異なる考え、肌の色、宗教などの人に対する、いじめ(虐待)、暴力、差別→
6) 敵国に対する戦争、敵と思われる人種に対するジェノサイド
この1)「陽気で楽しい暮らしがない」、2)「『私』の分裂((「私」の中に、「拒絶する私」と「拒絶される私」ができる)」、3)「相手を『拒絶する気持ち』」などの間に一方通行の「→」を記しましたが、本当は、双方向の矢印「⇔」でなくてはならないでしょう。
子育てや教育で課題になるのは、グレーにアンダーラインで記した「破壊性は、神の名において、自分の子どもに対する、道徳的、ないしは、物理的な残忍さとして、現れます」でしょう。この場合、親や教師は、子どもに対して、しつけや校則を厳しく言い立てます。あるいは、すぐにぶったり、睨んだりするような対応をします。しかし、彼らは「自分はするべきことをした」「良いことをしているのだから」と言って、自分自身も周りの者達も、誤魔化すことでしょう。なぜなら、親や教師がそう思い、そう振る舞う、その背景には、心の中の子どもとの対話を怠った結果、「私」が、「良いもの」と「悪いもの」、「拒絶する私」と「拒絶される私」に分裂しているからなのですが、それは無意識下のことなので、日常生活においては、気付かないのです。ですから、意識において、「自分はするべきことをしている」「良いことをしただけ」と偽装していることにも気づかないのです。
これを言い換えましょう。上下で人間を分け、自分を「上」に置きたい人がよくいますよね。その人は、自分を「上」に置かなくてはならないほど、その人の<私>がグラグラして、不確かなのです。ですから、「下」にいることに耐えられないのです。そうして、自分を「上」に置いて、子どもや、家族や職場で、自分とは意見が違う人、それから、障害者、外国人、異民族、異性(女性)、犯罪者、などを、自分より「下」の、価値のない人種(あの人たちは「かわいそうな人」等とその時、思ったり、言ったりします)と見なしてしまいます。普段この心情は、あまり目立たないことも少なくないのですが、自分との「違い」が意識に上ると、その子ども(それ以外は省略します)に対して、残忍なほどに、拒む気持ちが湧いてきます。これが、あらゆる虐待、いじめ、そして、厳しい躾けをする親や、校則を厳しく言い立てる教員の心理的背景です。私どもは、相手を、自分とは異なる存在として見るのではなく、自分と同じ存在、「仲間 kind」と見なして、親切(kind)でありたいものです。
しかし、そのためには、私どもはどうすればいいのでしょうか?
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