「陽気で楽しい暮らしがない」と「戦争・ジェノサイド」を結び付けると、まるで「風が吹くと、桶屋が儲かる」の類だと思ったあなた! そういう節もないではないのです。なせなら、これは、数学や物理の公式ではありませんし、100%絶対にこうなる、と言えるものではないからです。しかし、「こう言える場合が結構ありそうだ」ということは、言えるのではないでしょうか?この「こう言える場合が結構ありそうだ」ということを、ちょっと難しいのですが、蓋然性(probability)が高い、といいます。「難しいことを易しく」のこのブログの方針に従うならば、この蓋然性とは、「結構そういう場合がある」と言い換えておきます。「陽気で楽しい暮らしがない」⇔「<私>の分裂」⇔・・・⇔「戦争・ジェノサイド」は、その意味では、蓋然性がかなりある、つまり、結構そういう場合がある、というものです。
今日は、エリクソンが、人間を上下に分けるウソについて、教えてくれます。
覚えていてくださるでしょうけれども、ウォルター・リップマンが一つのウソの環境を、保守的なリベラルと述べた時、実際に、規範的な現実に対する精神分析的な要求を問題にしました。中には眉をひそめた人もいたに違いありませんが、私がこの発言で感心したのは、私自身、「ウソの、人間の分類」と呼んできた、人類が進化の過程で身に付けた(系統発生的)現象を描こうと思っていたからなのです。人間の社会的な進化は、「生物としての」進化という事実の上に、人種や民族や宗教の区別という上部構造を組み立ててきました。そのそれぞれの区別は、自分が属する「国民」がまぎれもなく「上」で、自分たちでない者すべては、そのように「下」の地位を割り当てる、世界に対する見方によって支配されています。この点については、間もなくもっと詳しく検討する予定ですが、それは、陽気で楽しいことが、生育歴上のパターンから、公私にわたる生活の中で、儀式化という、人類が進化の過程で培った(系統発生上の)形へと進んで、そのいずれも、人間がフリをすることが、生きるか死ぬかと言うくらい重大であることを説明してくれることを示す時です。実際問題なのは、人間がフリをする傾向が、私どもはその生育歴上の源をある程度は、大まかに描いてきましたが、人間という種が進化の過程(系統発生)の上に、いかに基盤があるのか? ということです。換言すれば、このようなフリが、私どもがリアルに感じることと、嘘っぽく感じることに、どのように影響しているのか?ということです。
エリクソンは、進化論の用語を用いて、この議論を進めています。それは、「個体発生」と「系統発生」という用語です。「個体発生は、系統発生を繰り返す」ということを聞いたことがある方も、きっとおられると思います。私は、これを意訳して、「個体発生」→「生育歴」、「系統発生」→「人類の進化の過程」と訳してきています。そうする方が、「難しいことを易しく」の方針を守れると考えたからです。
エリクソンは、人間を上下に分けるウソは、一つの世界に対する見方によって支配されているといいます。しかも、人間がフリをする傾向と、人間が自分の種である人類を上下に分けるように世界に対する見方を持つ傾向と、どうやら関係があるようです。エリクソンはこの2つの傾向をどのように説くことになるのか? それら知るのが今から楽しみです。
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