陽気で楽しい心構えがあっても、やり取りの目的を忘れる時には、役割そのものが自己目的化して、運命のおもちゃにされてしまう。実に恐ろしい現実です。しかしながら、同時に、そこに希望もあるから不思議ですね。そう、陽気で楽しい心の構えの目的、お互いを価値あるものと認めること、をハッキリ意識すること、そして、そのハッキリとした目的意識・ヴィジョンがもたらしてくれる希望です。
今日は、2チーム(「一人とその他」の場合もあります)に分かれて遊ぶ遊び(ゲーム game)と、一人の人の見当識、および、一人の人が人間関係を持つ際に、世の中をどう(無意識に)見るのかという見方に対する、知られざる影響力についてです。
ここで、私はサットン・スミスの包括的な業績を参考にするくらいはできます。彼は、子どものゲームの「人間関係の構造」を、特別な「時空劇場」での出会いとして、分析しています。たとえば、隠れん坊、鬼ごっこ、けいどろ、○○(これは翻訳できません。ゴメンナサイ)です。このようなゲームの結果が、技術、好機、あるいは、作戦次第であるかどうかにかかわらず、いずれにせよ、こういったいくつかのゲームは、そのグループの年齢の知的能力や体力を反映するばかりではなく、「権力モデル」をも反映しています。この「権力モデル」とは、緩衝装置つきの学習の場である、ということです。その緩衝装置つきの学習の場を通して、その子どもは、自分自身の文化の中で、人の心を支配する力の特性と関連する権力的戦略を掴むのです。
レヴィ・ストロースの業績を参照する時、サットン・スミスは、ゲームのことを、「一種の戦争であり、平和な人々の間でだけ起こる」と言いました。この本の文脈の中では、ゲームに共通の構造(既述の、おもちゃの劇場に共通の構造と比べて)を、個人の自我の時空と、一つの人間関係の中で人が世の中をどう見るかという見方との間をいっそう深く繋ぐ架け橋として、素描しようとすることしかできません。
ゲームですから、勝ち負けが出てきます。でも、ゲームも遊びですから、陽気で楽しいことが大切です。エリクソンによれば、このゲームは「権力モデル」を学ぶ、緩衝器付き場なのだそうです。それは、どうすれば人の心を支配することができるのか、という権力的戦略を学ぶ場です。ゲームも、非常にアンビバレントであることが、ハッキリ分かりますよね。
このゲームで学ぶ権力的戦略と、一人の人の見当識、および、人間関係を取り結びながら、人が世の中を無意識裏にどう見ているのか、という無意識の見方の関係を、エリクソンはどう明示してくれるのか、楽しみですね。
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