青年マルティンにとって、誰に従うのか、何に従うのが、抜き差しならぬ課題だったのです。なによりも、あいまい好きな日本人にはピンとこない人が多いかもしれません。
初期の「あれかこれか」に悩んだ結果、ルターは、神学的に苦闘する大人まで、実際になったのでした。ようやく38才になって、皇帝でもローマ法王でも、ものともしなくなり、神のみ言葉の代弁者となって、ルターは、修道士の誓い(De Votis Monasticis 『修道士の誓いについて』ルターの主著)を捨て去ることを良しとする仕事のきっかけになる状況に中で、血がつながって父親に頼みました。「お父さん たとえ息子を100任失っても、この栄光を手に入れるべきではないですか? … なぜなら、私が神のみ言葉に仕えて、一人立っていることを疑う人はいないからです」。ルターが、とりもなさず、ローマ法王に従わない新たな力を見つけたときに、父親に公然と「私は、結局はお父さんに従うことになります」と言います。だけれども、すべてを投げ打っても正しくありたいという、矛盾する願いを私どもは見逃すことができません。ルターはさらに次のように言います。「お父さんはまだ、(修道院のために)私を引き裂こうというのですが。…お父さんを虚栄心から救うために、神はお父さんかを通り越して、私を神の御許に連れ出してくださいました...。」このように、ルターは世の中すべてに対して述べたのは(彼の著作は当時ベストセラーでしたら)、「私の父は、修道士の仕事に反対したばかりか、その息子の私は、遅まきながら、父親が反対していることに同意したのでした。それは、神の栄光へと向かったのです。父へと向かったのではありません」
いつの間にか、父親に従うことと、神に従うことが、一つになっていますね。しかも、神に従うということが何よりも大事なのになっています。その時に大事なのが、神の言葉(話し言葉)なのですね。書いてある言葉ではありません。“話し言葉”であることに注意が必要です。
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