ヤーウェの神のお名前、「今なろうとしている者に、今なっている者」。そのお名前が、私どもひとりびとりを絶対的に肯定してくださる。それは「光」と感じられます。人は、種としてのホモ・サイエンスとして誕生してこの方、ずっと太陽の恵み(と災い)を経験し続けていることから、恵みに関して「光」と感じるのかもわかりませんね。この「光」は別にキリスト教の専売特許じゃぁないでしょう? 仏教でも「光」と言いますね。
p339の最初から。
「神の子」に関して、それは、永続的なものです。それは、あいまいな人の形(人の子のような者、あるいは、「人のような」姿[ダニエル書第7章13節])になって、ケダモノのような生物から現れる、とダニエルの預言者的な夢に出てきて、ほぼ進化論的に登場して以来、ずっとあいまいのままなんですね。あるいは、人間(ベーン・アダーマ)は、神の右側に座っておられます。あるいはまた、最後は、ここでは省略するゆとりがない何者か、すなわち、アラム語で単純に≪私≫という言い方です。このようないろんな意味全ては、 1人の人の形に宿る意識の並外れた意味に集中しているようでもあります。それで、私どもは、これらの意味全てから、何かが見つかることでしょう。それは、イエスが自分のことを「人の子」と呼んだことに関して当時の福音書記者たちや歴史家たちが、描き出したものです。
聖書に関する議論が長々続きますよね。クリスチャンでない方(100人いれば90人以上)は、「ついてけないな」と感じるかもしれませんね。
それでもね、これは必ずしもキリスト教信仰について述べているのじゃぁないんですね。そう、≪私≫と自分のことをクリスチャンでなくとも呼ぶと思いますが、その≪私≫がどういうからくりでできているのか? ということに対する答えを見つけたくて、エリクソンは聖書に当たっているんですね。
今日のところでは、≪人の子≫というのは、”意識と言うものの並外れた意味” と結びついている、と言うんですね。そして、意識は≪私≫をよりよいものにしてくれる、非常に大事な働きをする者なんですね。
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