エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

祈りのなか 呪いのなか なかなかのなか・さん

2015-12-24 07:08:52 | アイデンティティの根源

 

 

 
永久革命のためのパレーシア
半蔵門右手の桜田濠  「パレーシア」がレトリックと対立する伝統  パレーシアの主なやり方が、対話であることがハッキリしまし...
 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。神様を日々冒涜している人は、今日も、バカ丸出しです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.247の、第4パラグラフより。

 

 

 

 

 

 子どもの頃、自我がおしなべて身体の自我であり、身体が経験するあらゆる喜びと緊張から成る場合は、栄養を摂る過程が、空想の上で、自分のモデルの特徴になる感じです。栄養を摂るのも、毒を喰らうのも、消化するのも、排泄するのも、自分のモデルになりますけれども、それは、食べ物だけじゃなくて、良い影響でも、悪い影響でも、それを取り入れることも、自分のモデルに、なっちゃいますね。祈りや呪いも、現実の背後にあって、人格に取り込む力に向かう、本来備わっている、正邪相半ばする、2つの側面を、引き継ぐ場合があります。祈りは、神の言葉を聴き入れる信頼に満ちた状態です。ラテン語では「神と共に」と言って、ルターが大好きな言葉でした。「共に Coram」というラテン語は、「cum 共に」と「or 口」を組合わせた言葉です。呪いは、神の言葉を厄介払いし、ウンコを外に押し出す様に吐き出す、憎しみに満ちた状態です

 

 

 

 

 

 今日のところも、偽物は、どういう人かがハッキリ分かる所です。祈りは、エリクソンが言う通り、神の言葉を聴き入れることです。神の言葉を毎日聴き入れてれば、自ずから、神を畏れると同時に、人の話も謙虚に聴き入れることにもなりますね。

 ところが、いくら水の洗礼を受け、教会にも通い、しかも、ミッション系の会社に務めてても、それでクリスチャンとは限らないんですね。何度か取り上げた話題です。神を畏れないと、怯えた表情になるんですね。不思議でしょ。今日も怯えた表情で、国会近くの朝の散歩に出かける人が、フェイスブックに怯えた顔をアップしてました。神の言葉を厄介払いに、聴き取り拒否しに行ったんですね。呪いと憎しみに自分が満ちていることに、まだまだ、まだまだ、気付かないみたいです。誠に残念ですね。

 

 

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