聖書の言葉: 本物の洗礼、キリストの力発達トラウマは、強盗に似ている? ここからの希望 自民党が「圧勝」。残念です。 これだけ横暴なことをしていてても、自分が直接「被害者」にな......
人間は,事実だけでは生きられません。事実だけでは,納得できません。
たとえば,過労自殺に追い込まれた電通の女性のお母さん。娘さんが自殺したという事実だけでは,「うちの娘は自殺したんだわ」という事実だけでは,納得しませんでしょ。事実は変えられないけれども,「うちの娘が自殺に追い込まれたのは,日本人が死ぬほど働きすぎないで済むような,人間らしい社会になるための先駆けになるために死んだんだぁ」と意味づけたくて,民事裁判を起こし,記者会見を開いて,市民や社会に訴えかけておられる。そこには,「人間らしい社会」という全体像があり,「人間らしい生き方が善い」とする目的,ヴィジョンがなければ,意味づけることができません。
その人間にとって,根源的に大切なところです。
Toys and reasons. p.77. 第2パラグラフ。
5訂版です。
それで、ここでは、心魅せられることを現実ではないけれども(あるいは,まだ実現していないけれども)信頼することと現実が人間の中心課題になります。人間が生まれながらに与えられているものは,人間に、非常に柔軟な,人を動かす仕組み(フロイトの意味では、「本能に似たもの」)を与えてきました。この本能に似た人間の仕組みは、動物が限られた環境に、本能が適応する代わり になっているものです。この本能に似た人間の仕組みは、環境が破滅的に変化しない限り、人が生まれながらに持っているパターンを物理的環境にピッタリ合わせることによって、人類を1つにシッカリと結び付けてくれます。人類の場合は、「面白い」と思って心魅せられることを信頼して人や物を創造する力が、あまり頼りにならない本能に似た仕組みと、様々な文化で人が作り出した事実だけでは満足できない部分を,補ってくれます。事実、精神分析は、この本能に似た活力は、「やりすぎ・行き過ぎ」になるので、(訳注:人が生まれながらに持っているパターンを物理的環境に)「ピッタリ合わせる」範囲がとても狭くなる危険が潜在的にありますよ,と言ってきました。(訳注:ところが,精神分析のサイコセラピストみたいに,)この自由に動き回る、大量の本能に似た仕組みのエネルギーが,人類が進歩した根拠になったのは,事実の中にあります。つまり,それは,あんまり向きの定まらない本能に似た生命力を,認め合うこと,競い合うこと,一心同体になることと,子どもの時分に,必ずや結びつけるであろう,心満たされるやり取りの中で,日常生活を礼拝にするように人間は生まれながらになっている,という事実です。育ちつつある子どもが遊ぶ遊び(子どもは遊ぶために、長い子どもの時代があるのです)は、いろんな役割といろんなヴィジョンによって、司られ、導かれた(子どもの)生活の中で、いろんなことを想像し選択する自由を実験する練習場なのです。しかしながら、こういったことは、経済的、歴史的激変の中で、意義深い調整を経験しなくてはなりません。だからこそ、人間は,自分が一心同体になるものが見つからずに混乱する苦戦をしなくてはならないのです(この苦戦を乗り越えるためにこそ、青年期があるのです)。自分か一心同体になることが見つからない内は、青年になった人は、既存のいろんな形の自己肯定のやり方を喜んで受けいれるかもしれませんし、何かを作り出す感動を味わうかもしれません。また、価値に触発されて力を得ることがあるかもしれません。あるいは、実際には、「誰でもいいから殺したかった」となる場合だってあるかもしれません。
ですから,自由がとても大切です。
事実を学ぶだけじゃダメです。
事実だけだと,人間は,機械になるか,ケダモノになるか,また,その2つに同時になるか(これが一番恐ろしい)のいずれかです。
何のために生きるのか,自分は何を目指したいのか,が人間になる条件です。
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