話し合いの習慣がまだまだ脆い私たちですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.227の、下から6行目途中から。
論争の相手を招きたいと願うときに、これはよくあることでした。論争は、通常民衆にも、支配層の人たちとは、関係ないのが普通でした。しかし、このとき、ルターは大司教に配られていたラテン語版聖書を手に入れましたし、ルターはその聖書から、論争以上の答えを得ようとしました。ところが、その答えは別のところからやってきたんですね。このラテン語版聖書をドイツ語に翻訳したことによって、すぐに、幅広い、際立った反響が生じました。まずは民衆からの反響で、彼らは反イタリアでしたし、愛国主義でした。つぎに、土地を持たない人たちからの反響で、彼らは反資本主義で平等主義でした。それから、ほどほどの金持ちからでして、彼らは独占している金持ちに反対でした。王子らからの反響もありました。彼らは、排他主義者で、国境を守れと言うような人でした。教育の高い人たちからの反響もありました。彼らは、聖職者に反対でしたし、世俗主義的でした。
ルターが聖書を正しく翻訳することが、思いがけないところに、反響をもたらしました。不思議ですね。正しい翻訳によって、新しいヴィジョンが生まれたからです。みんなが腑に落ちないと感じていたことに、まとまりをもたらし、それがヴィジョンによって、新しい社会の在り方を描くに至ったんですね。
新しいヴィジョンが必要なのは、中世ヨーロッパの人たちばかりではありませんよね。
新しいヴィジョンが必要なのは、まさに私どもです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます