カウンセラーのお仕事 十分ではないけれども・・・大学院の心理学じゃぁない、日常生活の心理学 世界に対する見方を構成する3つのアスペクト 人間を上下に分けるウソは、人間の...>続きを......
今宵も本田哲郎神父様の言葉に学びたいと思います。洗礼についてです。
洗礼と言ったら、全身を水に中に浸す浸水と、額に水を垂らす灌水礼などのやり方がありますが、基本は全身を水に浸す浸水だそうですね。洗礼はカトリックにも、多くのプロテスタント諸教会でもありますが、サクラメント、固定的儀式を認めない私ども無教会やクエーカー(フレンズ)には、ありません。
しかし、本田哲郎神父様によれば、洗礼の本来の意味は、水に自らを浸すことではないらしい。私ども無教会でも、「それならば」という感じに感じましたね。『釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に 』から。
キリスト者としての根幹、すなわちキリスト者としての生活姿勢は、入信の儀式として行われる「鎮めの式」(バブティスマ βαπτισμα=洗礼式)において象徴的に示されています。聖書では「メタノイアの沈めの式」(バブティスマ・メタノイアス βαπτισμα μετανοιας)と呼んでいるとおり、これは「洗い清め」の儀式ではなく、
「低みに身を沈める」儀式でした。メタノイアが「(人の痛みの解るところに)視座を移す」という意味であることからもわかるように、「沈めの式」(洗礼式)を受けるということは、苦しむ人の痛みを共感するところからすべてを見直し、それに基づいて判断し、行動します」という決意表明(信仰宣言)にほかなりません。
洗礼式は、まるでお風呂に入るみたいに、「汚れを洗い流すもの」だと勘違いしている場合が多いのじゃぁないですか? 本田哲郎神父様のよれは、その勘違いが、大間違いであることがハッキリ分かります。
貧しく、弱くされている人たちの、鋭い感性に学びながら、行動を起こすことが、大事になります。それは多くの場合、人でなし、ビョーキの人、ビョーキの組織と闘うことが基本になります。弱い立場の命を傷つけている、ウソと逃げ腰を暴き、弱い立場の人が喜べるように変えていくことが何よりも大事になりますね。
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