精神分析は、科学的真理は扱っても、人格的真理は取り扱わないのでしようか?
p237第3パラグラフ。
しかしながら、臨床技術や臨床科学は、科学的な方法を用いるけれども、科学的方法によって定義されるものでも、科学的方法によって限定されるものでもありません。治療者は、最高善、命の保全、福祉の増進、つまり、「人生の維持」に関わります。治療者は、その最高善が実際にあることを、科学的な証明する必要などありません。むしろ、治療者は、科学的な方法で証明できることを調べながら、この基本的な前提に関わっています。これは、ヒポクラテスの誓いの意味だと私は思いますが、ヒポクラテスの誓いは、人間らしい倫理に、あらゆる医療技術を従属させます。人って、自分の人格と、自分の仕事と、自分の科学的な倫理をバラバラにすることだってできるって、本当です。人は、自分の暮らしでは、自分個人のニーズを満たそうとしますし、仕事では、他者の福祉を満たそうとしますし、研究する場合は、個人的な好みやら、自分が得することやらとは別に、真理を探究します。しかしながら、人がよって立って生きる価値の多様性に対して、精神分析では制限があります。それと同時に、最後的に、開業医だけじゃぁなくて、その開業医の患者や開業医の研究は、その人の気質、知性、倫理がある程度一つになっているんですね。この3つが一つになることこそが、本当に偉い医者の特色です。
公私混同の話ではありません。
高倉健さんが、追悼番組の中で、繰り返し言っていたこと。それは、「演じることには、生き方が出る」「演じることは、テクニックではない」ということを繰り返し言ってたでしょ。あれです。俳優は、他人を演じるはずなのに、本当に人の骨にまで響く演技をするためには、自分の生き方がにじみ出てくるような演技ではないとダメだ、という訳ですね。
エリクソンは、本当に偉い医者は、気質、知性、倫理が一つになっていることだと言いますね。「何のことだろう」と、ちょっと考え込んじゃいますよね。これはね、日ごろからの生き方が、ウソとゴマカシのない生き方でなくちゃぁ、まともな臨床はできない、ということですね。これは本当にそうなんですね。臨床には生き方がはっきり出ます。
これは司馬遼太郎さんが残している言葉とも関連しますよね。「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」を訓練を通して身に着けることが大事だと言ってますね。あれです。これが身に付いた生き方をしてると、それが臨床にモロに出てくんですね。ウソやゴマカシなどあろうはずがない。それは、真に忠実な生き方ですね。子どもはすぐに気が付きます。
野村實先生然り、関根正雄先生然り。
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