じゃぁ、どうすりゃいいの?人間が破壊的武器を手にしたロボットになるのは、確信がないとき、根源的信頼感が脆い時です。アベシンちゃんは、その意味では、不信の塊です。 Young Man Luth......
せっかくなので、今朝の「こころの時代」安積力也さんの言葉から。1つの問いです。基督教独立学園の保護者会で、安積力也さんが保護者の皆さんに対して発した問いです。その問いに対する応答も一部載せますね。
「もしかしたら、親や教師や、あるいは、為政者たちが、本来ならば、自分自身が引き受けなければいけない、自分自身の恐れや不安を、わが子や弱い立場の者に、引き負わせていませんか?」
この問いに対する応答からいくつか。
ある父親からの応答です。
「私のキリスト教信仰は、鎧だった。わが子をどれほど傷つけてしまっていたことか。…子どもがホッとしないことはウソなんだぁ」
ある母親からの応答です。
「実は私自身、親が怖くて仕方ありませんでした。未だ解決していません」
正直ですね。誠実な対話が成り立っていることが分かります。私が心理面接している高校生は、全員同じ課題に苦しんでいますね。親が自分で引き受けなくてはならない不安や怖れを、子どもに投影して、ぶつけて、子どもをコントロールすることで、解消できないのに、解消しようとしているのです。それを「なんで、親は○○なんだろう」と高校生になれば率直に言いますね。親の縛りが苦しくて、必死にそれから自由になろうとして、どうしたら自由になれるのかが分からずに、私のところにやってくるのですね。
でも、ハッキリ言葉にできた子は今までいませんが、箱庭やコラージュや遊びの中でハッキリと表現する時、小学生でも、同じ課題に苦しんでいることが、ハッキリと分かりますよ。いいえ、子ども達は、苦しめられているのですね。
自分自身の不安や怖れから逃げないで、それを自ら引き受けること。不安や怖れのどん底で体験した、「あの光」を味わっている大人が、子どもが抱えている不安や怖れを「共に見る」こと。そこから、その子ども自身も、たとえ小学生であっても、「あの光」を体験することができるものです。たとえ時間はかかっても、その不安や怖れの中に「あの光」を体験した子どもは、同じ子どもなのか?と思うほどの変容を体験して、おおらかに、悦んで、毎日を過ごすことが出来るようになります。不思議ですね。
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