マインド・コントロール 改訂版自分自身に出会う時 神様はいついかなる時も≪いまここ≫に私どもひとりびとりと≪共にある≫存在なんですね。これを、良い知らせ=福音と呼ばない手はあ......
Chilhood and Socirty から。p.24から。
ここで、「臨床的」という言葉の一番新しい意味は、不思議なことに、一番古い意味に近づいています。「臨床的」という言葉は、昔は、聖職者が一人、病んだ人のそばにいる時の働き、という意味でした。そして、それは、病んだ人の身体が、もだえ苦しみながら、最期を迎えつつあるように見える時であると同時に、病んだ人の魂が、創造主の神様に1人出会うために、道案内が必要な時でもあります。実際、中世では、この時、医者は聖職者を呼ばなくてはなりませんでした…。この前提は、今日「心身症」と呼んだかもしれない病人にも当てはまりました。…しかし、「臨床的」という言葉は、古い意味を取り戻しつつあります。というのも、神経症の患者さんは、自分の病気をどのように、何を感じようとも、その中核が傷ついているのですから。神経症の人は、死と言う最後の孤独に晒されたわけではありませんけれども、途方に暮れそうな孤独を経験しています。この途方に暮れる孤独は、一人ぼっちで、自分の経験はバラバラのままですから、神経症に由る不安と私どもは呼んでいます。…サイコセラピストは、この「人間の孤独」を治療します。
心の病は、人の中核が傷ついてること。示唆的ですね。こころの病の人は、死の孤独ではないにしろ、途方に暮れるほどの孤独を経験しています。
サイコセラピストは、聖職者に代わって、心病む人の傍らに立ちます(実際は、座ります☺)。
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