エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

インターメッツォ: エリクソンが語る「臨床」、セラピストのお勤め

2016-10-19 07:19:18 | 間奏曲

 

 

 
マインド・コントロール 改訂版
   自分自身に出会う時  神様はいついかなる時も≪いまここ≫に私どもひとりびとりと≪共にある≫存在なんですね。これを、良い知らせ=福音と呼ばない手はあ......
 

  Chilhood and Socirty から。p.24から。

 

 

 

 

 

 ここで、「臨床的」という言葉の一番新しい意味は、不思議なことに、一番古い意味に近づいています。「臨床的」という言葉は、昔は、聖職者が一人、病んだ人のそばにいる時の働き、という意味でした。そして、それは、病んだ人の身体が、もだえ苦しみながら、最期を迎えつつあるように見える時であると同時に、病んだ人の魂が、創造主の神様に1人出会うために、道案内が必要な時でもあります。実際、中世では、この時、医者は聖職者を呼ばなくてはなりませんでした…。この前提は、今日「心身症」と呼んだかもしれない病人にも当てはまりました。…しかし、「臨床的」という言葉は、古い意味を取り戻しつつあります。というのも、神経症の患者さんは、自分の病気をどのように、何を感じようとも、その中核が傷ついているのですから。神経症の人は、死と言う最後の孤独に晒されたわけではありませんけれども、途方に暮れそうな孤独を経験しています。この途方に暮れる孤独は、一人ぼっちで、自分の経験はバラバラのままですから、神経症に由る不安と私どもは呼んでいます。…サイコセラピストは、この「人間の孤独」を治療します。

 

 

 

 

 

 心の病は、人の中核が傷ついてること。示唆的ですね。こころの病の人は、死の孤独ではないにしろ、途方に暮れるほどの孤独を経験しています。

 サイコセラピストは、聖職者に代わって、心病む人の傍らに立ちます(実際は、座ります☺)。

 

 

 


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