#発達トラウマ障害の人 = #実感のない人
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「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」の途中,P.116の第3パラグラフから。
今朝は,p.117の5行目から。
毎日礼拝があまり役に立たないなどという様々な疑問全てに関して,2つだけ言わせてくださいね。私が申し上げたいことは,第1に、かつてないほど全人類を巻き込み,とても危ういバクチにもなるかもしれい見通しも定かではない中で,今日の工業化した文明が試みている様々な生き方を探し出すこと,すなわち,人間の赤ちゃんの時期を,改めて毎日礼拝にすることが大事だ,ということです。第2に,大人同士の関係の在り方も,さまざまな学問を巻き込んだ研究が必要になることでしょう,という事も申し上げたいのです。しかし,(訳注:もう1つ)申し上げたいのは,1960年代の若者達のバラバラな反乱の中には,聖書の神様の,イキイキ晴れ晴れとしたいのちが一巡する,毎日礼拝を復権させたいという,世にも重大な問いかけが,結界の中で,問われていた,という事です。この若者たちの纏まらない反乱は,全てのカウンターカルチャー同様に,「人を想う気持ち」が失われてしまったことと,指導者たちが「人を想う気持ち」が失われてしまったことなど,官房長官の菅さんみたいに「当たりません」と言って,若者達と同じ立ち位置に立ってくれないこととに対する,深い悲しみを示しています。そういう指導者たちは,若者が「血を流す犠牲」を払って「聖書の神様の創造のお役に立つ」ことにいつも頼るくせに,聖書の神様の創造を真正面にする志がありません。序論の引用でお示ししましたように,大量殺戮兵器という科学技術が生み出した手段に頼れば頼るほど,植民地戦争は実感なきまがい物の現実になります。この実感なきまがい物の現実は,絶望的にますます実感をなくして生きます。実感なきまがい物の現実は,不意に,我慢ならない「生き方」だ,さらには,そんなもののために「死んでたまるか」(人殺しなどできない)と感じる若者ができますね。
昨日 Aug. 14, 2020は,都立多摩図書館に,都立中央図書館から取り寄せた,西村秀夫先生の『教育をたずねて 東大闘争のなかで』を読んでコピーするために参りました。
この本は,その冒頭から「教育を忘れた大学」というタイトルでした。1963年に『中央公論』に発表した論考だといいますから,私が生まれるころから,大学は,東大でさえ,研究機関ではあっても、教育機関ではなくなっていたことを教えられました。教育をすればするほど研究の時間が無くなってしまうと感じる「学者」が多くなっていたそうです。
人格的な真実とは無関係な「研究」など,本来は研究でもないと私は考えます。私に言わせれば、そういう「研究」は,“ 自分が出世するためのゲーム カーチェイス ” と言った方が事の真実をついています。
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